100辞書・辞典一括検索

JLogos

56

吉野村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。相模国津久井県,明治3年からは津久井郡のうち。江戸期には吉野宿が置かれ,明治初年には吉野駅とも称した。寛永10年・元禄10年・幕末ともに幕府領。村高は「元禄郷帳」328石余,「天保郷帳」「旧高旧領」とも350石余。慶長7年の検地帳によると,定納高36貫322文うち屋敷分3貫82文・改出7貫776文・新畑504文で,名請人数75うち屋敷地名請数34(木村編:封建村落)。元禄年間の津久井領諸色覚書(藤野町役場所蔵文書/県史資6)によると反別は田9反余・畑49町4反余・新田1畝余,戸数78・人数477人うち男246,馬65で,小物成として漆2桶2貫200目・柿渋代永89文・紬40端・大豆1石余・荏6斗余・鐚217文が課せられていた。津久井県村々正漆納代永納仕訳控帳(和智家文書/県史資9)では現物納で4貫目,永納で4貫466匁余の漆役が課せられていた。「新編相模」によると江戸から18里,東西1里20町・南北1里10町余,戸数103。鎮守は天王春日社。そのほかの寺社に天王社・稲荷社・大牟礼社・石神社など13社,臨済宗吉祥山浄光寺・孤猿山慶昌寺・天潤山新泉寺,古義真言宗御岳山観福寺,当山派修験吉野山金剛寺がある。甲州街道が通り,吉野宿が置かれ,寛政年間から吉野村を吉野宿と記す場合が多くなった。弘化元年の甲州街道宿村大概帳(逓信博物館所蔵文書/県史資9)によれば宿高329石余,東の与瀬宿へ34町28間,西の関野宿へ26町,宿の町並東西3町20間,宿内人数527人うち男247人,宿内家数104軒。人馬は25人・25匹を定数とする。宿の中ほどに本陣・脇本陣・高札場があり旅籠屋は3軒,地子免許1,088坪。弘化2年より駄賃および人足賃金が4割5分値あげされ,与瀬宿まで荷物1駄71文,人足ひとり36文となった。市立て・米の津出しはなく,竹木の類を相模川経由で江戸に運んだ。農間余業に男は往還稼・山稼など,女は機織。南端を流れる相模川に日連村に渡す丹田前渡し,沢井川には官費で造られる小猿橋が架かり,ともに甲州街道の経路であった。延享・寛延年間には,奥山境目をめぐって,沢井村・小渕村と相論を起こしている(木村編:封建村落)。相模川には金亀岩・鶯淵の名勝がある(新編相模)。「武甲相州回歴日誌」には「吉野宿ニ入レハ已ニ甲州街道左右紡織ノ家比々タリ」とある(庶民史料12)。明治元年神奈川府を経て神奈川県,同4年足柄県,同9年からは再び神奈川県に所属。同22年市制町村制施行により飛地を小原村に編入,与瀬村・小淵村・沢井村の飛地を加え,単独で自治体を形成,吉野駅となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7305500