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岩船郡


江戸期の郡内の村数・総石高は,「正保国絵図」4万9,204石余,「元禄郷帳」243村・4万8,501石余,「天保郷帳」250村・6万478石余,「旧高旧領」250村・6万1,099石余。慶長3年1月上杉景勝の会津移封により,平林城主色部光長をはじめ麾下の将士も郡内を去り,同年5月堀秀治の越後入国(春日山藩)により,その与力大名として村上頼勝が9万石で本庄(村上)城に入り,郡内一円はその知行下に入った。頼勝の家臣への知行宛行状から村々を関組・平林組・瀬波組・猿沢組などに分けて支配していたことが知られ,また,頼勝は360歩1反による検地を行ったと見られる。元和4年村上氏の除封により,堀直竒が10万石で村上城に入り,岩船郡はその支配下に置かれた。直竒は元和5年から300歩1反の検地を行い,また沼金鉱山(関川村),蒲萄山(朝日村)などの開発につとめた。寛永19年直竒の孫直定が7歳で没し,嗣子なきため家断絶,封地は幕府出雲崎代官の支配下に入った。正保元年本多忠義が10万石の村上城主となり,岩船郡は再び村上藩領となった。慶安2年忠義は陸奥国白河へ転じ,松平直矩が15万石の村上城主となり,当郡は従前通り村上藩領。直矩は明暦4年から検地を全領内に行った。承応~寛文年間には朝日村蒲萄や山北町の村々から42軒・214人が出羽国庄内藩領へ欠落ちしているが,これらの村々は小村なので,さらに苛酷な検地を恐れたためと考えるべきであろう。「寛文朱印留」によれば,一円が村上藩領で,342村・5万3,195石余。寛文7年直矩は旧地姫路に戻り,代わって姫路から榊原政倫が15万石の村上城主となった。岩船郡は従前通りその知行地で,貞享元年高辻帳では236村・4万8,165石余となっており,関組(29村)・小見組(15村)・上保内組(14村)・下保内組(11村)・殿岡組(15村)・牧目組(16村)・小口川組(12村)・日下組(24村)・新保組(22村)・上野組(18村)・黒川俣組(11村)・府屋組(13村)・立島組(16村)・下海浦組(10村)・上海浦組(10村)・村上町・瀬波町・粟島と組分けされていた。宝永元年榊原氏は姫路へ戻り,姫路から本多忠孝が15万石の村上城主として入封したが,忠孝は同6年没し,嗣子なきため城地は幕府に収められたが,本多家は家柄の家であるとして,分家本多忠英の嗣子忠隆(忠良)に家を継がせ,村上城と5万石を賜わった。これにより当郡の半分以上が幕府領となり,河原清兵衛・林甚五右衛門両代官の支配となった。しかし,忠良は翌7年三河国刈谷へ転じ,上野国高崎の松平輝貞が7万2,000石の村上城主となった。これにより幕府領のうち関・小見・上保内・下保内の4組を除くほかは村上藩領に復した。輝貞は享保2年高崎に戻り,高崎から間部詮房が5万石の村上城主となった。このため再び多くの村々が幕府領となり,岩船郡は81村のみが村上藩領となった。享保5年間部氏は越前国西鯖江へ移され,河内国大蓮から内藤弌信が5万90石余で村上城主となったが,当郡の領地には変動がなく,以後明治維新まで在封した。幕府領の村々は正徳2年に一部が上野館林藩領に,さらに享保9年にまた一部が館林藩預地になった。享保14年に館林藩は領地と預地の上知を命じられ,郡内の幕府領の村々は出羽庄内藩の預地となり,寛保9年に26村が陸奥白河藩領となり,残りは寛延3年2月に越後水原【すいばら】代官支配に移され,同年5月長岡藩預地とされ,宝暦3年には出羽米沢藩預地と同尾花沢代官支配に分けられるなど,その後も幾多の変遷があった。「旧高旧領」によれば,明治初年の当郡の所領構成は,村上藩領81村・2万4,553石余,会津藩領59村・1万3,191石余,一橋家領17村・7,274石余,幕府領94村・1万6,067石余(米沢藩預所91村・1万5,084石余,水原代官所3村・983石余),除地12石とある(県史研究15)。村上藩が5万石に減った後,村々間の紛争で幕府の評定所に提訴となり,裁定された事件が数回あった。主なものは,延享元年の白河藩領大平村と村上藩領指合村ほか8か村の大平山出入り,宝暦3年の幕府領海老江村と村上藩領桃崎浜・塩谷村の荒川湊出入り,安永4年の幕府領岩沢村ほか2か村漁民の村上町三面川鮭漁場荒し事件,文化3年の幕府領小見村ほか10か村と村上藩領大平村ほか18か村を相手とした大栗田堀割分水事件などである。騒動としては,延享3年の村上・瀬波・岩船の町民が米高値の原因が塩谷湊の船宿が米を買い集めて他国の船に売却したことによるとした船宿などへの打毀事件,文化11年の白河藩領および蒲原郡の黒川藩領・旗本松平氏領の農民の起こした入出野騒動(蒲原岩船騒動)があった。当郡は荒川と三面川の下流以外は山地で,零細な農民が多く,それらの地域では林業,ことに塩木の生産と移出に頼らざるを得なかった。慶応4年8月村上落城後は村上民政局の支配に入ったが,明治2年2月旧領主に戻され,同3年7月村上藩領以外の村々も村上藩領となり,同4年7月廃藩置県により村上県となり,同年11月新潟県に合併された。同10年の「全国農産表」によれば,主な普通農産物の作付面積は米7,319町余,大豆932町余,蕎麦588町余,大麦577町余,小麦387町余,粟65町余などで,農業生産額の比率は米74%,茶14%,大豆3%,その他9%(県史通史編6)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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