鵜坂御厨(中世)

鎌倉期~室町初期に見える御厨名。婦負【ねい】郡宮河【みやがわ】保のうち。延文5年3月の「神鳳鈔」によれば皇太神宮領として「越中国弘田御厨,鵜坂御厨,伊水御厨」が記され,鵜坂御厨の上進分として「内宮五十町」,また3つの御厨の上進分として朱書(建久4年当時のものか)に「内宮上分長日御幣六百四十八帖」,「外宮上分十五石,八丈絹十五疋,四丈布十五段,綿百五十両,鮭十五隻」とある。鵜坂御厨のことはこのほかに詳しいことはわからないが,この付近には婦負郡の式内社として有名な鵜坂神社があった。社伝によれば創立は崇神天皇のときに大彦命の勧請によるものとされ,奈良期に再興されたとある。現在は面足尊・惶根尊を祭神とし,ほかに鵜坂姉比咩神・鵜坂妻比咩神をも祀る。鵜坂神のことは「続日本後紀」の承和12年9月乙巳条に「奉授越中国婦負郡従五位下鵜坂神従五位上」とある叙位記事以後,貞観2年5月に従四位下,同4年10月には従四位上,同9年2月には従三位に叙せられている。また同5年8月には姉比咩・妻比咩の両神が正六位下から従五位下に叙せられている(三代実録)。次いで文和3年12月23日の「足利義詮御判御教書案」には「御家領越中国宮河庄事,守護入部之儀,就鵜坂社訴状令下知畢,於自今以後,弥可被全領掌之状,如件」(徳大寺文書/県史中)とあり,徳大寺領宮河庄の守護入部について鵜坂社より訴状が出されてそれを禁止する旨を下知されている。なお社殿は治承年間に兵火にかかって焼失したが,源頼朝によって再興され,付近の12か村を社領としたと伝えられている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7317470 |