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般若野荘(中世)


鎌倉期から見える荘園名礪波【となみ】郡のうち現在の礪波市の庄東・庄西地区を中心に,南限は庄川【しようかわ】町三谷【みたに】地区,北限は高岡市中田町にわたる広大な荘域を有する徳大寺家(藤原北家閑院流)領の荘園庄川の現在の流路は近世に変更されたもので,それ以前は現在の流路のはるか西方を流れており,庄川は般若野荘を南北に貫流してはいなかった般若野の初見は,「源平盛衰記」の寿永2年5月2日条で,平盛俊が布陣したことがみえ,同9日条には,この地で源平両軍が合戦し,平家が大敗して加賀国(石川県)に撤退したとある般若野荘の初見は「吾妻鏡」文治2年6月17日条であるが,荘園の成立はこれよりもさかのぼる同日条には,内大臣徳大寺実定の般若野荘などの家領が比企朝宗らの鎌倉方武士によって2,3年の間所務乃貢が押妨抑留されているとの実定の訴えに対して,すみやかに武士の狼藉を停止すべきことが源頼朝より命じられたとある般若野荘押妨事件も鎌倉幕府草創期・内乱期に諸国に頻発した荘園公領の武士による押妨狼藉と軌を一にするものであろう同承久3年6月8日条には,承久の乱に際して越後守護北条朝時が越後勢を率いて上洛の途中,越中国般若野荘において北条義時追討の宣旨が到来したが,朝時・結城朝広以下が京都方の武士を撃破したと記されている文永7年3月24日の「秦守高多烏浦立始次第注進状」(秦文書/県史中)には多烏浦【たがらすのうら】(福井県小浜【おばま】市)に越中国般若野荘等の年貢米が荷上げされていたと記されており,般若野荘の年貢米が日本海海運によって若狭(福井県西部)に荷揚げされて徳大寺家に運上されていたことが知られる弘安元年12月15日の「平賀惟長譲状」(平賀家文書/大日古14)で,般若野荘内の油田条【あぶらでんじよう】などの所領が惟長の弟惟致に譲り渡され,この所領譲渡は同9年5月3日の関東下知状(同前)で安堵された平賀氏の油田条などの所領は,惟致―貞泰―惟藤―安芸尼(きやうくわん)―兼宗と譲渡相続された(平賀家文書・平賀氏系譜/同前)康永元年8月3日の「泉涌沙門思淳渡状」(覚園寺文書/県史中)には,覚園寺(神奈川県鎌倉市)の所領目録に,「越中国般若野庄内三谷等寄進状二通」と記されている鎌倉中期から南北朝期にかけて般若野荘内部には油田条地頭職(平賀氏),三谷等(覚園寺)という鎌倉方の所領・所職が含まれていた南北朝の内乱期には守護勢力による荘園侵犯が頻発したが,明徳4年5月3日の「足利義満御内書案」(徳大寺家文書/県史中)では,徳大寺家領般若野荘領家方に対する守護使の不入・役夫工米国役停止の確約が示されている応永15年10月10日の「足利義持御判御教書案」(同前)でも般若野荘領家方の国役免除のことが示されているが,同19年10月17日の「東寺造営料棟別銭関係文書集」(東寺百合文書/大日料7-17)には,「般若野 狩野新左衛門入道殿」とあり,国中平均の東寺造営料棟別銭が般若野荘にも宛課されている永享12年6月11日の「足利義教御判御教書案」(徳大寺文書)でも般若野荘領家方の段銭諸公事・臨時雑役等所役の免除と「早為守護不入地,可被全領知之状」が確約されたが,「康正二年造内裏銭并国役引付」(群類雑部)には,「拾貫文……堤新次郎殿 越中国段銭般若野庄」とあり,守護権力の排除は幕府の保証にもかかわらず実現されなかったらしい「蔭涼軒日録」寛正3年8月7日条には,太秦安楽院(京都府)領の油田に対する守護代遊佐新左衛門による違乱が起きていることが記されているこのような守護権力の度重なる介入違乱に対して徳大寺家は般若野荘を直務化しようとし,文正元年10月13日の「足利義政御判御教書案」(徳大寺家文書)で,般若野荘領家方の段銭・諸公事・臨時雑役以下の免除,守護不入のことが確約され,同10月17日の畠山政長施行状案(同前)で越中守護政長より守護代遊佐長滋に同荘領家方の徳大寺家の直務化,「可沙汰付下地於徳大寺家雑掌之状」,段銭・公事・課役守護役・守護使入部の停止が命じられ,,同11月13日の「遊佐長滋書状案」(同前)には長滋が直務化を承服したことが記されている「蔭涼軒日録」文明17年11月5日・7日・11日・14日条には,安楽院領油田村の知行をめぐる相論のことが,翌18年2月16日条には安楽院の唯一の知行地油田村が冷泉家に押領されていることが記されている同相論は安楽院の勝訴になったらしく,延徳2年8月16日条には安楽院領安堵の御判案文が飯尾之種によって作成されたことが記されている同7月26日条には「上様(義材)御料所越中国般若野」とあり,延徳年間頃に般若野荘は幕府御料所になっていた同日条には同荘の年貢がかつては京着700貫文であったが,近年は490貫文京着月充30貫文であること,同荘を足利義尚の菩提料所として常徳院へ寄進する予定であることが記されている同荘の足利義材料所化は,越中守護畠山政長が義材(越中公方)を支持していたことによるものであろうか永正3年3月28日付の鐘銘(常福寺旧蔵/県史中銘文抄一)には,「越中国都波郡般若野庄地頭方東保郷」とあり,地頭方は現在の庄東地区,領家方は庄西地区あたりと推定される一向宗関係史料では勝興寺系図(大日料8-13)に,文明13年に康兼が般若野荘中田村に徳成寺を建立したとあるのが初見勝久寺(岐阜県大野郡)蔵本尊裏書(県史中)には,「文明十九年丁未般若野番頭法名円通」とあり,「証如上人日記」(石山本願寺日記上巻)天文22年4月22日条には,「就当番之儀,越中坊主衆 于時超勝寺下般若野内平木正賢 樽持参」とあり,室町期から戦国期にかけての一向宗の浸透を知ることができるまた同荘地域への熊野信仰の浸透・信者組織の成立が,明応6年8月6日に般若野24郷内の熊野旦那職が6貫文で売却されたこと(河西子息旦那売渡状・米良文書・熊野那智大社文書2),同8年6月1日に「はんにや野之庄」旦那職の半分が買い戻され3貫文が返却されたこと(河西盛祐旦那売渡状/同前)から知られる越中守護畠山尚順が足利将軍継嗣争いをめぐる畿内の抗争に専念している間,越中支配は守護代神保慶宗に委ねられていたが,慶宗が尚順の意にそむくことが多かったので,尚順は越後上杉房能・守護代長尾能景に慶宗の討伐を要請した尚順の要請によって越中に出兵した能景は,永正3年9月19日の般若野合戦で討死にした塔寺長帳(改訂史籍集覧25)に能景が9月26日に蓮沼で討死にしたとあるのは誤り同年閏11月26日の「上杉房能安堵状」(越佐史料)では,般若野合戦で討死にした水原景家の遺領が景家の娘禰松女に安堵されている年欠7月26日の細川高国(管領)書状(古今消息集/越中史料)で般若野荘は徳大寺家に返付されたこのことは永正5年に義材(義稙)が室町幕府将軍に復したこと,あるいは大永3年に義稙が没したことによって同荘が義稙の料所であることが廃されたことによるものであろうか天文2年10月20日の「徳大寺家当知行目録」(徳大寺家文書)には,「一,越中国般若野庄領家方」とある「公卿補任」天文14年条には,徳大寺実通が越中国知行分の視察・直務のために越中に下向したが,現地の武家・荘民の違乱によって9人ないし13人の従者とともに殺害されたとある礪波市安川薬勝寺の宝篋印塔・公卿塚(九人塚)は,この実通殺害事件に関連するものであろう幕府料所が廃され同荘が徳大寺家に返付されたのち,実通の同荘確保の努力も在地の抵抗によって挫折し,徳大寺家の同荘に対する支配は無実化した永禄3年以降は,越中に侵入した上杉勢とそれに抵抗する越中勢の中心地の1つ増山城攻防のことが上杉謙信書状等の中に散見される般若野荘関係地名に野市金屋・西部金屋・中田村(高岡市),三谷・平木(庄川町),油田村・東保郷・増山(礪波市)がある




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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