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氷見郡


明治29年4月,分郡運動が効を奏して,278年ぶりに再び氷見郡は射水郡から独立した。その管内には,氷見町・太田村・宮田・窪・神代【こうじろ】・仏生寺・布勢【ふせ】・十二町・加納・上庄【かみしよう】・熊無【くまなし】・速川・久目【くめ】・稲積【いなづみ】・余川・碁石【ごいし】・八代・阿尾・藪田【やぶた】・宇波・女良【めら】の各村の1町20か村があり,郡役所を氷見町仕切町に置いた。明治29年の氷見郡の戸数は,1万798・人口5万4,187(氷見郡誌)。県内2市8郡のうち最小であり,位置の偏在・田畑僅少・工業不振なども原因して,郡勢はあまり振るわなかった。地形的に孤立地域であり,「富山県の北海道」とも称せられた。農業・工業の不振に反して,漁業は県下第一で,沿岸の定置網漁業が主で春網(主としてイワシ漁),夏網(主としてマグロ漁)・秋網(主としてブリ漁)を「三季の網」と称し,多大の漁獲をあげてきた。ことに明治40年秋,秋網に日高式大敷網を採用して後は,連年ブリの大漁が続き,漁村は好景気にわき返った。大正元年9月,中越鉄道が氷見町まで延長されて氷見駅が開設され,交通運輸は便利となった。第1次大戦には氷見の特産縫針に注文殺到して,熱狂的好景気が訪れ針工場が乱立したが,大正8年以降針価が暴落して倒産相次ぎ,17社が1社を残すのみとなった。昭和3年上庄川河口に近代的な氷見漁港の築港が完成し,以後数度の拡張と改修と設備増設が行われた。大正12年3月をもって郡制廃止となり,同15年6月氷見郡役所もなくなったが,行政区画・地理区としての氷見郡は存続した。昭和17年7月より同29年4月まで氷見地方事務所が置かれ,県庁と町村との連絡に当たった。同27年8月,氷見町は隣村の余川村・碁石村・八代村と合併して市制をしいた。その後同29年3月までに窪村ほか14か村も氷見市に合併して,氷見郡は解消した(ただし太田村のみは高岡市に編入)。1つの郡がそのまま市に移行した珍しい「1郡1市」の例として,全国から注目された。昭和25年の氷見郡の戸口は,1万3,597世帯・7万3,322人(県統計書)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7321382