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櫛比荘(中世)


鎌倉初期から見える荘園名・御厨名・保名櫛比御厨【くしひのみくりや】・櫛比保ともいう能登国鳳至【ふげし】郡のうち初見は建久3年8月の伊勢大神宮神領注文で,「能登国櫛代御厨〈内宮御領〉,給主大弐三位家〈件御厨去保元年中建立也〉供祭物布百端 別進起請布五十端」とある(神宮雑書)古代の和名抄郷の「櫛師【くしし】」の地名を継承するが,「櫛代」はおそらく誤記であろう「時衆過去帳」には「前一房応安元年四月廿二日,櫛司」と記され(藤沢清浄光寺文書),「櫛師」の郷名が伝承されているが,中世には転化して「櫛比」と書かれるのが通例である御厨としてよりも,荘として登場する例が圧倒的に多く,荘名の初見は,承久3年9月6日の能登国田数注文の「櫛比庄 九拾町九段」である(鎌遺2828)なお櫛比御厨荘・櫛比院荘とする例も,それぞれ一例ずつ検出される内宮御厨としての成立は,平安末期の保元年中建久3年段階の給主大弐三位は,平治の乱に敗れた藤原信西(通憲)の孫の大宰大弐藤原範能と考えられている内宮領としての櫛比御厨(櫛比荘)は,南北朝期に成立した「神鳳抄」にも載っており,一世紀を経た応仁2年6月の大神宮神主連署注進状案や文明9年6月の神宮司庁宣(以上,内宮引付),16世紀の永禄3年3月22日の室町将軍足利義輝御内書の「大神宮領能登国櫛比庄事」にもあらわれる(温故古文抄)ので,中世を通じて存在したことがわかるこの荘園の鎌倉期の地頭は確認できないが,建武元年11月20日の地頭沙弥幸蓮寄進状では,櫛比荘内の二ケ【にか】村の田地100刈を長谷部幸蓮が荘内の聖天社に寄進しており(総持寺文書),すでに地頭職は,長【ちよう】氏の庶流の櫛比長氏が領有していたことが知られる荘内の諸岡【もろおか】寺が禅刹総持寺に改められるのは,ほぼこの前後と考えられる南北朝期から室町初期にかけて,地頭櫛比長氏一族による総持寺への田畠の寄進が多く,応安5年3月12日の室町幕府御教書によれば,「南禅寺雑掌良心申 能登国櫛比保〈長近江寺跡〉地頭職事 為当寺山門造営料所厳重之地也」とあって,櫛比保地頭職が,南禅寺山門造営料所に当てられている(南禅寺文書)一方これに先行する応安4年3月25日の後円融天皇綸旨によれば,「新熊野社領能登国櫛比御厨参分壱下地」が京都の覚王院範恵に安堵されている(新熊野社文書)荘内にあった曹洞宗総持寺は,応永6年6月17日の室町将軍義満御教書によって,室町将軍家祈願寺となり,荘内の寺領を安堵されているが(総持寺文書),その後櫛比荘の領有権の分割は一層進行したようであり,天文20年5月23日の守護畠山義続家年寄連署奉書によれば,畠山義続は父義総の塔頭料所として荘内の「諸岳村」を京都大徳寺興臨院に寄進している(東京大学所蔵文書)櫛比御厨(櫛比荘)・櫛比保の領家職・地頭職は,伊勢内宮・新熊野社・守護畠山氏・大徳寺興臨院・地頭櫛比長氏などによって,複雑に入り組む状態で近世を迎えたなお,櫛比御厨(櫛比荘)と櫛比保の領域区分は明確にできない荘名は近世に伝えられ,通称地名として鳳至郡櫛比荘が存続する現在の鳳至郡門前町の中央部西半,八ケ【はつか】川中下流域に比定される




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7324614