100辞書・辞典一括検索

JLogos

32

倉見村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。加賀国河北郡のうち。加賀藩領。寛文10年村御印の村高776石,免5ツ1歩,山役756匁・蝋役4匁・綿役2匁・油役15匁。寛文年間の百姓数42人(加州三郡高免付御給人帳)。幕末の村高は799石5斗9升5合。文化8年の「村々諸産物相調理書上申帳」によれば,越中今石動などから金沢へ馬につけて運ぶ牽売米1,020石ほどのほか,菜種2石9斗・蚕繭150貫目・楮皮33束・渋柿80俵・割木570貫目ほどの生産があった(新田家文書)。当村の十村新田家はもと羽咋郡北川尻に住み喜多家を称していたが,9代目市十郎の時,河北郡の十村を命ぜられ,文化元年から倉見村に居住するようになった。以降,幕末まで十村を勤めた。神社は八幡神社がある。明治41年神明社を合祀。そのほかには弁財天がある(寺社由来)。また,山神様が祀られており,毎年3月と12月に山祭が行われてきた(津幡町史)。寺院には真宗大谷派祐閑寺と浄土宗専修庵がある。祐閑寺は蓮如の三男蓮綱が能美【のみ】郡波佐谷に創建した松岡寺が2度の兵火で中絶した後,河北郡銚子口に移って祐閑寺と称し,明暦2年倉見村に転じ,寛文11年現在の地に再興したという(河北郡誌)。しかし,波佐谷松岡寺跡を継ぐものは能登松波村の松岡寺であり,この寺伝はそのまま信じられない。専修庵は金沢六斗林の津幡屋万斎が知恩院に参籠し,専修庵の号を受けて慶応元年に開いたものであるが,明治3年万斎(浄蓮)が没した後一時廃絶されたが,村民らの願いにより明治11年に公許された(同前)。明治5年石川県に所属。同9年祐閑寺を借用し倉見小学校が創立されたが,同15年一時津幡小学校に合併されて廃校となった。同22年笠井村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7324690