材木町(近世)

江戸期~昭和41年の町名。1~7丁目がある。江戸期は金沢城下町のうち,本町の1つ。明治22年からは金沢市の町名。元禄9年の本町肝煎裁許附には上材木町・下材木町を載せ,一裁許となっている(稿本金沢市史)。上材木町は小名を紺屋町,下材木町は小名を金屋町といった。いずれも寛永12年の火災までは紺屋坂門下と金谷門の辺りに町があったことによる遺名とされる。金屋町は材木町から,さらに旧金屋町(現森山1丁目・東山2丁目)の地へ再移転している。紺屋町は移転の際,藩主から材木を与えられたことにちなんで材木町という町名に改めたといわれる(古蹟志)が,むしろ「いにしへ材木蔵爰に有ける故の名といふ。今も其遺跡所々にありといふ」(亀の尾の記)とした説もある。紺屋坂門下からの移転時期も「金沢事蹟必録」の元和2年,「金沢古蹟志」の寛永8年説も加えて3説があり定かでない。上材木町の小名である紺屋町は館紺屋孫十郎が慶長年間に金沢紺屋頭を命ぜられて住んでいたことに始まるという(古蹟志)。館紺屋は元は一向一揆の旗本高桑備後の後裔で,河北【かほく】郡の森下【もりもと】で紺屋を営み,前田利家から紺屋支配を命ぜられている(館紺屋文書)。紺屋町は,名の通り,江戸期から染工が多く住んだ町。文政6年6月27日町奉行書上には「材木町壱丁目より三丁目迄此分上材木町と申候」とあり,「肝煎八郎兵衛裁許」と記す。また「四丁目より七丁目迄此分下材木と申候」とあり,肝煎は新右衛門とある。安政年間の「御府内町名尽」と文政6年の「金沢町奉行より出候町名」では本町と見える。嘉永年間侍帳にみる住所には横山遠江守(3万石)材木町,成瀬掃部(8,000石)材木町の表記のほか,横山外記(3,500石)材木町四丁目,賀来元貞(十人扶持)材木町六丁目の表記も見えるが,上材木町・下材木町が1丁目~7丁目に変更された時期は文政6年5月(加賀藩史料)。明治5年の戸籍編成に際し,小鳥屋町を廃町として材木町7丁目に統合した。これ以後昭和41年の住居表示改正に至るまでの材木町1丁目は,東南は柿木町入口より,西北成瀬町入口まで,東北は森町1番町,南は木曽町に通じる地域。以下2丁目は1丁目堺より,北方賢坂辻通入口まで,東は森町・裏御小人町・御小人町,西は八坂・小将町に続く。3丁目は2丁目堺より備中町入口まで,東は横山町,越中町,西は味噌蔵町裏丁に接する。4丁目は3丁目堺より北へわずかに折れるところまで,東は又五郎町,西は味噌蔵町裏丁に境する。5丁目は4丁目堺より北方玄蕃町入口まで,途中西方は九人橋下通に通じる。6丁目は5丁目堺より北方児玉小路入口まで,西は味噌蔵町裏丁,東は玄蕃町2番丁に隣接。7丁目は6丁目界より北方橋場町に達するまで(以上皇国地誌・稿本金沢市史)。6丁目に真宗大谷派善福寺があり,その地中の道因寺(現松任市相川【そうご】町)・光誓寺(現兼六元町)・正伝寺(現松任市相川新町)があった。大正5年の戸数・人口は1丁目93・363,2丁目88・375,3丁目168・575,4丁目94・369,5丁目97・259,6丁目120・340,7丁目118・341。昭和30年の世帯数・人口は1丁目60・297,2丁目81・342,3丁目128・557,4丁目83・343,5丁目71・311,6丁目90・412,7丁目71・298。同41年1丁目は金沢市扇町・東兼六町,2丁目は扇町・東兼六町・小将町,3丁目は横山町・材木町,4・5丁目は材木町となり,6・7丁目は橋場町へ編入。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7325023 |




