竹橋村(近世)

江戸期~明治22年の村名。加賀国河北【かほく】郡のうち。加賀藩領。寛文10年村御印の村高664石,免5ツ5歩,山役495匁・野役2匁・蝋役5匁・綿役6匁。寛文年間の百姓数48(加州三郡高免付御給人帳)。幕末の村高590石。当村は北国街道の宿駅で,竹橋宿と称した。津幡【つばた】宿から当宿を経て倶利伽羅【くりから】峠を越え,越中の埴生【はにう】宿・今石動宿に達する。津幡宿とは30町(約3.3km),埴生宿とは2里4町余(約8.3km),今石動宿とは2里21町(約10.1km)の距離があった。宿駅として伝馬役,夫役,公用荷物の輸送などを負担する代わり,寛永12年には郡役の免除を受け(津幡町史),また,居屋敷113軒分,18石9斗(鍛冶屋敷1軒分を含む)の拝領を受けていた(改作所旧記)。そのほか,明暦2年には金沢届米を一般の百姓馬で輸送することを禁じ,必ず竹橋・津幡両宿の馬(1か月のうち竹橋10日間,津幡20日間)で送ることを命じられる(酒井家文書)など,種々の特権が与えられていた。文化元年の家数は131(新田家文書)。本陣は酒井家,のちに七野屋九兵衛家が勤めた。宿屋は4軒以上あった(津幡町史)。定馬数は時代によって異なるが,寛文6年68匹,延宝9年58匹,元文元年44匹,天明8年35匹,寛政2年30匹と,時代が下るとともに次第に減少している(同前)。江戸初期から宿駅としての独占的特権を与えられていたが,天正年間からの牽売馬稼ぎや,江戸中期にあらわれた牽売女馬の盛行により,次第に宿の特権がおびやかされ,輸送が増大するなかで,竹橋宿は次第に困窮するようになった。藩へはしばしば借銀・借米を願い出,寛政2年からは口銭取立仕法が実施されたが,それでも宿の困窮は続いたようで,文化13年には藩から定馬30匹相当の3貫750匁を受け取っている(同前)。文化8年の「村々諸産物相調理書上申帳」によれば,越中今石動などから金沢へ運ぶ牽売米360石ほどのほか,蚕繭200貫目・菜種13石3斗・藍50貫目ほどの生産があった(新田家文書)。明治5年石川県に所属。同11年細川九平らによって天田峠越えの新道が開かれた。この新道は倶利伽羅峠越えの北国街道に対し,竹橋川を溯上し,ほぼ直線的に今石動に至るものであり,全長2里20町59間4尺(約10.1km),幅2間(3.6m)で,1万4,000円余の醵金を以て建設された(津幡町史)。この新道はやがて北国街道にかわって国道となり,今日の国道8号のもとになった。寺院には天文2年の創建と伝えられる真宗大谷派教願寺がある。神社には白山社があり小白社と呼ばれていた。明治22年倶利伽羅村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7326027 |




