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鳳至郡


天正9年能登に入部した前田利家は,同10年から11年にかけ郡内の検地を実施した。同10年9月3日「あなみつ 大町」(吉村家文書),翌11年9月22日「諸橋之内沖波村」(諸橋家文書),「天正拾⊏南北之内志津見村」(七海区有文書)の検地帳が知られる。同10年から12年にかけての郡内扶持給与者は14人。慶長9年制定の十村役は,寛永12年郡内18人(上梶家文書)。十村組名は時代によって異なるが,天保10年仕法では,南北組・大屋組・河原田組・櫛比組・仁岸【にぎし】組・諸橋組・上町野組・下町野組の8組(郷土辞彙)。郡奉行は輪島の郊外宅田に,山奉行は宇出津【うしつ】に置かれた。天正以後の郷荘は,仁岸郷20か村・阿岸郷18か村・本郷19か村・穴水郷10か村・南北郷23か村・河原田郷18か村・三井郷15か村・南志見郷11か村・山田郷25か村・諸橋郷18か村・上町野郷16か村・中町野郷15か村・下町野郷16か村・櫛比荘32か村・七浦【しつら】荘29か村・大屋荘24か村の13郷3荘309か村があった。正保3年の郷帳高は4万7,491石,寛文10年は299か村で,村御印高は5万7,975石(うち手上高2,825石)・免平均5ツ25歩,新田高261石・免平均5ツ1歩。主な小物成は,山役26貫739匁(以下出来を含む),猟船櫂役8貫595匁(退転182匁5分),澗役6貫251匁4分(退転1貫633匁),外海船櫂役5貫643匁5分(退転1貫407匁),網役2貫752匁9分(退転12匁),地子銀1貫500匁,炭竈役1貫259匁(退転639匁),室役・紺屋役1貫35匁(退転25匁),鍛冶役493匁(退転12匁),苦竹役384匁,ほかに役銀の多い順に列記すると,釣役・鱈役・川役・素麺役・針金役・地国并他国人猟役・鳥役・刺鯖役・蝋役・串海鼠【くしこ】役・漆役・嶋役・油役・烏賊【いか】役・海鼠腸【このわた】役があった(加能越三箇国高物成帳)。天保年間の村数は236か村,5万9,808石余(幕府領22か村は含まず)であった。主な出来事は,寛文7年8月,長家の内紛浦野事件で,長谷部信連以来の家の子の末孫,宇留地・阿岸両長氏の断絶。同9年9月,白山争議による白山麓の尾添【おぞう】村31軒・瀬戸村10軒の山是清・鑓川【やりかわ】両村への移住。享保6年6月,幕府領黒島村と藩領鹿磯【かいそ】村海境争論が起こり幕府の裁許で能登62か村の幕府領が加賀藩の御預所になった。同14年7月7日大地震が起こり震動34回,同12日まで余震があり,輪島では家屋倒壊300余を数えた。宝暦6年7月,宇出津の十村源五を組下23か村,1,000人が襲撃,その首謀者7名は牢死(坂下喜久次:加賀藩における百姓一揆/石川歴史研究2)。文政2年3月,12代藩主斉広の改作法復活令後,そのぜいたくを理由に十村中居村三郎兵衛,馬場村喜右衛門が処罰された。慶長11年に置かれた能登の土方雄久領62か村(1万3,000石)のうち郡内には22か村があり,以後その村数は貞享元年幕府領化,享保7年加賀藩の御預所化,慶応3年の私領打込みを経て,明治初年まで変動しなかった。慶長11年の村高9,126俵余・免平均4ツ2歩,定納4,413俵余(高橋隆則家文書/七尾市史2)。正保2年の村高4,834石余。貞享4年の家数880(うち役家530),5,110人,牛馬608。享保6年の小物成は肴網役30石・山手役24石7斗5升9合・塩新釜役49俵・船役14石3斗7升5合・出村地子役小判3両・塩釜役1貫105匁・肴役416匁1分5厘・浪鯖役鯖1万1,000代605匁・室役39匁・新肴網役30匁,他に釣舟役・炭竈役・立添塩釜役・長木役・御林下草役・串海鼠【くしこ】役・紺屋役・猟師鉄砲役・枚木役があった(能登国六拾壱ケ村小物成浮役品々改帳)。天保年間の村高は5,152石余であった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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