大味浦(近世)

江戸期~明治22年の浦名。越前国丹生郡のうち。福井藩領。高は,「正保郷帳」51石余うち田方28石余・畑方23石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」も51石余。慶長6年の本年貢36石4斗(7ツ取),小物成は山手銀15匁,船役27匁(3艘分)。本年貢のうち米納6石7斗5升,大豆納10石6升6合,残り18石5斗8升4合分は銀納であった。同12年の小物成銀は山手21匁・船役36匁・海役89匁・室役12匁,同19年は山手21匁・船役116匁・月肴代銀30匁・室役12匁であった。江戸初期には水主7人乗りの延縄漁船など5艘を有したが,遭難で2艘を失って以来次第に三国新保浦の廻船水主となる者も多くなった(刀禰家文書)。また,魚仲買人になる者も多く,享保14年には6人を数え,蒲生など近隣の浦々へ出入りした(青木家文書)。江戸後期から三国~敦賀間の磯廻りの海運業を営む者が出て,八幡神社には数多くの船絵馬が寄進された。享和3年の家数50(伊能忠敬測量日記)。大味川の川漁の歴史は古く,慶長19年の小物成銀請取状(刀禰家文書)に「一,銀六匁 川役」と見える。福井藩は川狩を行い,宝暦4年の川狩御用足半藁請取状(同前)によれば,鵜匠4・鵜方役1・料理人2・足軽1・水主3・鵜籠持4・荒子8・台所荒子2の計25人が,8月2~14日まで精進日2日を除く10日間当浦に滞在して鵜飼をしている。「名蹟考」にも「大味川 武周より流出,此浦にて海ニ入,鮎多し」と記されている。御坊格の真宗大谷派高田山法雲寺は貞享3年向山村から移転。明治4年福井県,以降足羽【あすわ】県,敦賀県,石川県を経て,同14年福井県に所属。「足羽県地理誌」によれば,東西30間・南北1町,戸数59・人口348(男175・女173),馬2,田3町3反余・畑2町1反余,物産は糸・木実,商船11。明治6年進階小学校開校,同20年近隣の2校とともに蒲生小学校に統合(越廼村誌)。同22年越廼【こしの】村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7329921 |




