折立村(近世)

江戸期~明治22年の村名。大野郡のうち。「名蹟考」は枝村として「折立上村・東赤谷・西赤谷」を載せる。他村の史料に枝村を赤谷村と記すものもある。はじめ福井藩領,寛永元年からは大野藩領。村高は,「正保郷帳」173石うち田方90石・畑方83石,「元禄郷帳」「名蹟考」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに173石。天和2年の越前国大野丹生足羽郡郷村高帳(土井家文書)では,村高173石,夫米8石6斗5升・用木代米5斗・山手米4石1斗2升・川役大豆3斗・赤谷年貢代銀300匁である。享保11年の皆済目録(小森家文書)によれば毛付高160石,年貢率は毛付定免3割5分,物成米62石4斗,口米・夫米・山手米などを含めた納米は78石5斗6升,うち36石6斗は石代銀納(銀1貫469匁7分1厘),1石5斗4升4合余は大蔵手形で納入,このほかの納入方法は,夏夫米2石2斗6升1合余(銀納86匁5分)・秋夫米6石3斗8升8合余(銀納225匁2分)・夏山手米2石6升(銀納81匁3分7厘)・秋山手米2石6升(銀納75匁1分9厘)・入木代米5斗(銀納17匁6分3厘)・川役大豆米2斗1升8合(銀納7匁6分9厘)・御買綿手米2石4斗(翌夏の綿相場で納)・2石8斗5合(夏成綿550匁納)・6斗6升6合余(高大豆8斗納)・1斗6升(高稗8斗納)・3升余(下麻201匁納)・15石2斗(斗立大豆15石2斗納)・御種貸米8斗・御膳米4升8合余・御作事木萱代1斗3升1合余・1升5合余(白麦1升9合納)・御検見野扶持2斗6升9合余,このほか雪垣代銀8匁6分5厘である。安政4年の皆済目録(称名寺文書)では,年貢率は毛付免3割8分5厘(本高よりは3割7分4厘4毛余),物成米64石余,口米・夫米・山手米などを含めた納米は80石余,うち41石余は石代納,ほかに雪垣代銀8匁6分4厘である。文政6年の郷中家数人別仕出帳(笠松家文書)によれば,家数60(高持31・水役24・寺5),人数221。寛政元年の御案内懐中帳(同前)では高持29・水役31・寺2・寺家2,男129・女114,牛7,境寺村まで2里の人足賃34文・本馬賃68文である。慶応3年の人別五人組改帳(小森家文書)では高持36・水役19・寺道場4,男143・女157。「大野往来」(大野市史)は産物として冬瓜を記す。神社は白山神社。寺院は真宗高田派称名寺・西生寺・誠諦寺・正行寺。称名寺は高田専修寺3世顕智の北陸教化の頃に建立と思われ(美山町史),開基の人物は「帰雁記」「越藩拾遺録」は佐々木四郎高綱,「名蹟考」は佐々木三郎盛綱とし一定しないが,法名を法善坊光実とすることでは一致する。古くは北坊と南坊にわかれ,南坊は移転し黒目称名寺(現三国町)となったという。同寺では正月元旦に村内の戸主が集まり開基の木像に献ずるために団飯を争う「椀飯」や2日の「御盞頂戴」の行事が江戸末期まで行われていた(大野郡誌)。南坊の下寺正行寺は延宝2年寺号を得たが称名寺との確執が絶えず元禄13年廃寺となった。正徳3年西河原村に願重坊(大谷派)として再興,その後正行寺も黒目称名寺の掛所として復興した。明治4年大野県,以降福井県,足羽県,敦賀県,石川県を経て,同14年福井県に所属。「足羽県地理誌」では村域東西45間・南北2町36間,戸数56・人口303(男152・女151),馬2・牛10,田畑10町7反余,物産に繭・生糸・菜種・苧綛・楮・桑があった。同7年称名寺を仮校舎に折立小学校開設,同9年校舎新築(現下味見小学校)。同13年枝村の赤谷村を分村。同22年下味見村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7330150 |




