三ケ浦(中世)

鎌倉期から見える地名越前国坂北郡坪江郷のうち河口荘綿両目等事所載の永仁5年2月坪江下郷検注状に「三ケ浦 成就院」とあり,同6年8月23日の坪江郷検注使迎料水津夫伝馬注文に「三ケ浦 夫二人」と見え,検注使の入部に人夫役2人を賦課されている(北国庄園史料)正和5年3月日の越中放生津住人則房申状に「同(大乗院家)御領越前国坪江郷佐幾良・加持羅・阿久多宇三ケ浦預所代左衛門次郎」と見えるように,前浦・梶浦・安島浦の総称で興福寺大乗院領であった(内閣文庫蔵大乗院文書雑々引付/鎌遺25798)大乗院尋尊筆の坪江下郷三国湊年貢夫役等事によれば,三ケ浦は本田6町半・新田3町6反の所領で,その他三保大明神の宮地が免除されていた(北国庄園史料)以後も興福寺の重要な所領の1つで,「大乗院寺社雑事記」によれば,康正3年8月7日大館教氏が三ケ浦・連道・小山を80貫文で請負ったが,長禄3年2月には越前国の斯波方と甲斐方の合戦の最中,鶴丸・三ケ浦に大窪某が乱入し,その後年貢未進がはなはだしくなったので,ついに寛正4年11月25日直務支配とされたその後,甲斐氏や朝倉孝景が代官職を望んだが結局直務とされ,文明9年11月にも尋尊は年貢を寺家定使に渡すよう孝景に依頼している室町期に開発が進み,河口荘綿両目等事には「三ケ浦之内新開九十七石」と見え,その半分を甲斐氏が押領していたという(同前)河口荘勘定帳(広大猪熊文書)によれば,永禄4~8年の間,三ケ浦と鶴丸の本役銭を「安島殿」が負担している現三国町安島・崎・梶一帯に比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7331425 |