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徙都部郷(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える郷名。越前国南仲条郡のうち。このほかに徙徒部郷・侍都部郷・志都部郷などとも書く。史料上で当郷に属すと推定される地域は,宅良村・平葺保・大塩保・三尾河内である。元亨元年の仏念・友吉名主職去状(慈眼寺文書)に,「侍都部郷内宅良村」とあり友貞名半名の名主職を山本荘住人の刑部に去り渡すと見えている。応永8年の守護代甲斐祐徳宛幕府政所執事伊勢貞行加判奉書案(蜷川家文書1/大日古)では,斎藤蔵人入道が賜った「徙徒部郷」の年貢20貫文につき,これを長井兵庫入道跡(子孫か)に賦課したが,未進が続いているので,直ちに沙汰し渡すようにと命じている。享徳4年の守護代甲斐常治奉書(慈眼寺文書)では,顕孝庵が買得した「徙都部郷宅良村」依真名の知行を安堵している。康正2年に当郷に賦課された造内裏段銭では,長井因幡守が10貫文を納めている(康正二年造内裏段銭并国役引付/群書28)。寛正5年の年紀を有する大塩八幡宮縁起(大塩八幡宮文書)に「徙都部郷之内大塩八幡大菩薩」と見える。文明6年の宗伝寄進状では,「徙都部郷内三尾河内」の田・屋敷などが慈眼寺に寄進されており,ついでこれを受けた同年の朝倉孝景安堵状では,「徙都部郷内三尾河内八飯村」の抜地などを安堵すると述べられている(以上慈眼寺文書)。明応4年の足利義高袖判御教書(金沢松雲公採集遺編類纂)では,長井大郎知行であった「志都部郷」を,勲功の賞として吉見義隆に宛行っている。大永2年の年紀を有する平吹日野神社神輿修造碑(南条郡誌)に,「徙徒部郷平葺保」と見える。大永5年の後柏原天皇綸旨案(壬生家文書/図書寮叢刊)には,内侍所御灯料所である徙都部郷内の能若名8町余は,長享年間までは年貢の沙汰が行われていたが,その後退転しているので,中原職行の知行を全うするよう小槻于恒に命じている。なお慶長19年の卜部兼治神道裁許状(大塩八幡宮文書)には「徙都部郷大塩八幡宮」と見える。また大塩八幡宮鐘銘には,慶長20年に本多富正が「徙都部郷内大塩八幡宮」に鐘を寄進したと見える(南条郡誌)。慶長国絵図には,「たくら・尸都部郷」2,486石余と記されている。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7331521