知見村(中世)

鎌倉期~戦国期に見える村名。若狭国遠敷【おにゆう】郡名田荘のうち。平安期に3町ばかりの土地があったと記される「弘瀬野」は(徳禅寺文書永暦2年4月日若狭国司庁宣),中世では知見村内の「広瀬野名」として見えており(大徳寺文書1貞和2年11月19日僧行寛契状/大日古),現在の兵瀬に比定されるから,南川中流の久坂・挙野・小倉畑・兵瀬地域を中世では知見村と称していたと推測される。三重村・田村とともに名田下荘に属していた。文永4年12月26日安居院実忠譲状案(大徳寺文書1/大日古)に,「若狭国名田庄内知見村」領家職を実忠一期の後に実忠の孫の別当典侍局に譲るとあるのが初見。以下,「大徳寺文書」に散見するところによれば,建治3年8月には当村を含めた名田荘7か村を外孫実盛に譲るとする実忠の譲状が認められ,当村の知行に関しては別当典侍局と実盛との間で争いとなったが,正応2年10月13日に実盛が去状を出して,別当典侍の知行を承認している。別当典侍局は実忠の孫の公員(故少将)に譲与していたが,彼が死去したため,正和5年正月20日に公員の子の実綱(遠江侍従,大炊御門三位家)に譲与することとし,文書は「かすかまち」の土倉に預けていた。しかし別当典侍局が召使っていた行寛はこの文書を取り出して浄土寺に質入れしてしまったという。行寛の主張によれば,この地は別当典侍局が行寛の父の守寛に譲与したところだとしている。他方で名田荘惣荘の支配権を主張する実盛の娘権大納言典侍も訴えを起こし,元応2年9月8日別当典侍死後は権大納言典侍の知行とするという判決を得ているが,元亨元年5月13日には権大納言典侍の権利は否定された。この相論の中で,別当典侍局は一部の文書を取り返すことができたが,なお他の文書は行寛と浄土寺が保持していたとみられる。行寛は別当典侍局を脅迫して文書を書かせて知行権を奪おうとしたが,大炊御門実綱は所領回復に成功し,元亨4年2月2日には実綱の後室(にしむきの御方,藤原氏女)に譲与した。その後この後室は子の季綱・季光とともに,南北朝期にも支配権を保持した。行寛より当村を買得した浄土寺も権利を主張し,康永2年9月には浄土寺慈勝も北朝に訴えている。さらに貞和2年11月19日行寛は,惣荘支配を主張する権大納言典侍の子花山院兼信と「合体」し,知見村のうち西山法華山寺寄進分・新井田・上野名・広瀬野名を除いた半分を兼信に引き渡し,残る分は法華山寺に寄進するが,兼信分の預所に任じてほしいという契状を作成している。しかしこの「合体」勢力も大炊御門家の知行権を奪うには至らなかった。貞和3年当村は延暦寺の十乗坊・光明坊らによる濫妨狼藉を受け,貞治3年には新名繁氏の違乱を受けるが,その際藤原氏女から訴訟が出されている。貞治3年12月23日当村の領家職は藤原氏女から徳禅寺に寄進され,翌年には徳禅寺の知行を認める後光厳院綸旨が出されている(以上大徳寺文書1/大日古)。一方当村は本家職を有する蓮華王院の支配も受けており,元徳2年12月27日当村から蓮華王院金堂修理用途として600文を供出しているのをはじめ,毎年正月18日には修正会料として菓子9合・松9把を,4月には寺兵士布として4丈布2反を,8月には香料として750文を「知見村役」として負担している(真珠庵文書)。またそれらの村役の徴収者として,納所・兵士所の左兵衛尉親清や左衛門尉国親の名が知られる。貞和3年良慶の乱入の際にも「本所領」なので幕府の成敗するところではないとされているが(同前),当村が徳禅寺へ寄進されて以降蓮華王院の支配は徐々にその実を失ったものと思われる。守護一色氏,武田氏の領国支配の中で,徳禅寺の支配は戦国期の文明年間まで確認される(大徳寺文書1康応元年9月10日足利義満御教書・文明8年4月19日室町幕府奉行人連署奉書案/大日古)。天文15年9月6日の三重熊野神社の上葺の際には当村から200文を施入しており(熊野神社棟札/名田庄村誌),弘治2年6月22日明通寺鐘鋳勧進算用状(明通寺文書/小浜市史社寺文書編)には「四百文 ちミ村」と見える。なお中世に知見郷を領した知見出雲守の宅地跡が小倉村にあると伝える(若狭国志)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7332542 |




