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鶴丸名(中世)


鎌倉期~戦国期に見える名【みょう】の名越前国坂北郡坪江郷のうち坪江下郷三国湊年貢夫役等事の坪江下郷鶴丸・久恒の項に「永仁五年十一月廿七日記云,鶴丸番頭廿七丁五反三百歩,石王十丁六十歩」「弘安六年検注帳云,鶴丸二十九丁半,分銭卅七貫七百六十五文〈反別百卅文〉」と見える(北国庄園史料)応永28年11月には,杉江彦左衛門入道が鶴丸名の代官職を仰せ付けられた(坪江郷奉行引付/小浜敦賀三国湊史料)興福寺大乗院にとって重要な所領で,その年貢は上北面や中童子らにも分与され,春日社にも上分が渡された(三箇院家抄など/北国庄園史料)康正3年8月7日大館教氏は河口荘細呂宜郷上方政所職・同公文職・鶴丸名・三ケ浦・連道・小山・石王名などの年貢納入を請負っているが,その時の鶴丸名の年貢は50貫文であった(大乗院寺社雑事記)一方,斯波義敏の被官となっていた杉江某は長禄2年3月斯波方の被官の所領安堵に伴い復帰を求めたが,足利義政は義敏に申し入れて大館教氏を代官たらしめた同3年2月から3月には越前在地における守護方と甲斐方の争いに関連して,大窪某や堀江石見・杉江らが当地に乱入する事件が起きたその後大館教氏は大乗院に年貢未進を重ねたため,山形加賀入道常祐が代官職を望んでいったん請負ったが,同年10月に大館は未進を返済し,また,足利義政の口入れもあったので還補されたところが,大館はまたも所々の年貢未進を重ね,しかも寛正3年11月にはその分を大館の坪江郷政所任料銭に立用するとの幕府奉行人奉書が下ったため,大乗院は幕府に訴え大館との相論になったこの訴訟の最中大館教氏が没したため,大乗院は年貢納入を求めて神事停止を決定し,同4年11月鶴丸名は細呂宜郷などとともに直務とされたその後同年12月に野依親家が代官職を請負ったが,三国湊の訴訟に関連してやめさせられた鶴丸名の代官職をめぐって甲斐氏や朝倉孝景が就任を望むが,やがて応仁・文明の乱が勃発し,大乗院の年貢収入は有名無実となった文明9年11月22日の大乗院門跡尋尊の書状によれば,朝倉氏の保証のもとに当地の年貢納入がなされていたものと考えられる(以上,大乗院寺社雑事記など)同15年頃に見える鶴丸代官の鳥居・前波藤左衛門尉はいずれも朝倉氏の有力家臣の家柄である戦国期の状況は明らかでないところが多いが,鶴丸の名は天正3年の「越前国相越記」まで見える(山田竜治家文書)現在の三国町域にあったと推定されるが,範囲などは未詳なお,戦国期には河口荘関郷内に「つるまる村」が見えるが,当名との関係は未詳




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7332654