国衙(中世)

戦国期に見える地名。八代【やつしろ】郡のうち。国家とも書かれる。古代,甲斐の国衙のあったところという。元亀3年6月3日付斎木助三右衛門尉宛武田家印判状に初見(斎木直家文書/甲州古文書1)。斎木助三右衛門尉に,国衙のうちにある市川宮内左衛門尉分の5貫文が与えられている。天正10年3月,武田氏は滅び,甲州は織田信長の支配に入るがその信長も6月に本能寺に討たれ,混乱におちいった。直後徳川家康軍が入甲し,国内を平定する。同年6月26日徳川家康の命をうけた大須賀康高が一蓮寺に対し,寺領として当地の3貫文を安堵している(一蓮寺文書/同前)。同年8月11日には,家康から塚本喜兵衛に対し,「国家之内名田屋敷壱間被官諸役等」が本領として安堵され(譜牒余録後編/甲州古文書3),同年11月27日には,武藤嘉左衛門尉が,やはり本給として国衙のうちで1貫600文を安堵されている(武藤一作家文書/甲州古文書1)。この頃から,当地の土地が武田旧臣たちに安堵されたり,充行われることが盛んにみられるようになり,同12月5日には,辻次郎右兵衛に6貫500文(辻保順家文書/同前),同12月7日には曲淵彦助正吉に,当地および平井で52貫文(旧武川衆所蔵文書/甲州古文書2),翌天正11年閏1月14日には土屋源三に23貫文(原秀平家文書/甲州古文書1),さらに同4月18日には山梨神主に700文が神領として与えられている(山梨岡神社文書/同前)。なお,同4月19日には一斉に文書が発給され,永昌院に1貫文,一蓮寺に2貫400文,善光寺に5貫500文,二宮神社に1貫300文,神座山社に270文,さらに同5月13日には二宮神社にまた700文が与えられている(永昌院文書・一蓮寺文書・善光寺文書/甲州古文書1,美和明神社文書/甲州古文書2,御庫本古文書纂/徳川家康文書の研究上)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7335950 |