千見(中世)

戦国期に見える地名。安曇【あずみ】郡のうち。弘治元年と推定される3月21日の武田晴信感状に「大日方入道以武略,千見之地被乗取候砌」とあり,当地における大日方入道の戦功を賞している(大日方文書/信史12)。天正10年武田氏が滅亡し,次いで織田信長が本能寺で自害すると,当地付近は越後の上杉景勝の支配下に置かれた。天正11年と推定される卯月2日の直江兼続書状案によれば,水内【みのち】郡葛山衆に対して「千味在番無油断之由肝要候」と当地にあった千見城の守備を命じている(覚上公御代御書集/同前補遺上)。天正12年には春日淡路・大日向源太左衛門が小笠原氏につき,千見城には沢渡盛忠・渋田見源助以下9名の城番衆が置かれた(岩岡家記/同前16)。しかし同年と推定される弥生3日の小笠原貞慶書状案には「せんミなともさんさんの体に候之間」とあり(御書集/同前16),同じく卯月朔日の直江兼続書状案によれば,上杉景勝が須田信正に千見城番を命じていたことが知られる(歴代古案/同前16)。翌天正13年9月13日には,上杉景勝が小田切左馬助の「仙見之地」の合戦で仁科勢を破ったことを賞している(同前)。天正14年と推定される6月11日の小笠原貞慶書状案では仁科衆に千見城の普請を命じているが(御証文集/信史16),同じく10月5日の石田三成等連署状案によれば,小笠原貞慶が「千見・青柳」を押領したとの疑いをかけられていたことが知られる(覚上公御代御書集/同前補遺上)。天正17年9月17日には小笠原貞政が浅野久右衛門に千見城在番を命じ(浅野文書/同前17),同年10月7日には貞政が沢渡盛忠の「千見在番」の労をねぎらっている(御証文集/同前17)。天正18年には豊臣秀吉が小笠原貞慶の所領糾明のため石川康正・同光吉を信濃に派遣しているが,9月23日付の秀吉の書状によれば上杉景勝の兵が「千見城」などを占拠したため,同城を康正に渡すよう命じている(歴代古案/同前17)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7340028 |




