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高島藩(近世)


江戸期の藩名江戸初期から明治維新まて諏訪郡一円および筑摩郡内を領有した譜代小藩諏訪藩ともいう天正18年徳川家康の関東移封に従い,諏訪郡古来の領主諏訪氏の頼忠・頼水父子は関東に移った代わって豊臣大名日根野高吉が諏訪郡一円を領有し,新たに諏訪湖畔に高島城を築き,城下町を建設した慶長5年吉明が襲封したが,関ケ原の戦後下野国壬生に減知移封となった慶長6年諏訪頼水が諏訪郡に帰封し,諏訪郡一円2万7,000石・72か村を領有した大坂の陣後の元和4年11月,筑摩郡南部に5,000石・12か村を加封された(東五千石領)寛永17年頼水が致仕し忠恒が襲封日根野氏や頼水・忠恒は諏訪社に社領を寄進していたが,申請により慶安元年7月将軍徳川家光から諏訪上社1,000石・同下社500石安堵の朱印状が交付された高島藩領はもとのまま3万2,000石であったが,明暦3年3月3代藩主忠晴が遺領を継いだ時,東五千石領を割いて弟の頼蔭・頼久にそれぞれ1,000石を分知し,藩領は3万石となり,以後固定する(諏訪の近世史・県史)当初家臣は地方知行制であったが,忠晴は延宝3年地方召し上げを行って蔵米知行に改め,領内を下筋・東筋・西筋および東三千石の各行政区に分け代官に支配させる体制を整えた(県史)これに伴って知行地居住の多かった家臣の城下集住が進み,城下町が一段と整備された(諏訪市史)また初期からこの頃までに,八ケ岳山麓の山浦地方をはじめとする新田開発が進んだ(茅野市史・原村誌)忠晴以後藩主は忠虎・忠林・忠厚・忠粛・忠恕・忠誠・忠礼と代わるが,5代忠林の明和元年頃から諏訪・千野両家老家の勢力争いを中心とした御家騒動がくすぶり始め,6代忠厚の天明元年に爆発し,7代忠粛の同3年ようやく落着した(諏訪騒動・二之丸一件)後期に藩財政が悪化する中で,坂本養川の計画により用水を繰越堰で活用する開発が山浦で進められ,また諏訪湖の氾濫を防ぐため浜中島の撤去などが行われた産業では小倉織や養蚕・製糸業,寒天・鋸の製造などが発達し,上諏訪・下諏訪の温泉もにぎわいを増した(諏訪の近世史ほか)幕末維新期には元治元年の水戸浪士との樋橋合戦,慶応3年の御札降り,同4年の赤報隊の処刑などの事件が相次ぎ,10代藩主忠礼の明治2年3月版籍奉還,同4年7月廃藩,高島県となる




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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