妻科村(近世)

江戸期~明治14年の村名水内【みのち】郡のうち「つまなし」ともいう犀川支流裾花川下流左岸に位置する河岸段丘のある地形で,地名の由来は,「しな」が段丘,「つま」が隅の意と考えられる伝説では,妻科明神が独身であったからともいう妻科神社前の橋を「一人寝の橋」といい,婚礼の通行を忌む習慣があった式内社妻科神社などの所在地で,水内郡衙も当地にあったと推定され,字聖徳から奈良期の官庁用鼎脚硯が発見されているまた,地内後町には鎌倉期に信濃国庁が置かれていた信濃の歌枕として「つまなしの社」が「和歌初学抄」(嘉応元年)に見え,また「妻成」とも書いているから(戸隠山顕光寺流記),古代・中世から「つまなし」といっていたらしい江戸期までは古墳群が残っており,宝塚・盲塚などの地名が残る寛永16年肝煎が「つまなし村」と記しており(大勧進文書),江戸期にも「つまなし」と通称されていたらしい松代藩領村高は,「慶長打立帳」「正保書上」「元禄郷帳」ともに631石余,「天保郷帳」636石余,「旧高旧領」665石余村内は,本郷・後町・新田・石堂の4組からなる本郷を除く3組は北国街道に沿う街村で,善光寺町と接し,事実上善光寺町の一部をなしていたこのため,3組は後町・新田町・石堂町とも称された新田組は,松平忠輝の松代城代花井吉成が江戸初期に裾花川を改修してできた新田といわれ,江戸後期には木綿市が立った石堂組の西光寺は苅萱上人・石堂丸の開基と伝え,石堂丸の墓といわれる鎌倉期の石塔があり,石堂組の名は石堂丸にちなむといわれるが,石塔が地名の由来であろう字聖徳に聖徳宮があり,善光寺町の祇園祭はこの宮の傍らの槻の大木に天王おろしをすることが行事の始まりであった妻科神社の東隣に元禄年間虚空蔵堂が建てられ,明治11年戸隠本坊勧修院の客殿を移して本堂とし,鬼無里松巌寺末善松寺となるまた,羽黒派修験中央院があった(明治12年廃寺)後町組には真宗正法寺・浄土宗十念寺,石堂組には浄土宗西光寺がある後町組は北国街道の西側の街村で,東側は善光寺町の一部をなす後町であり,前者は西後町,後者は東後町とも呼ばれた村内の後町組は寛政9年分村願を出し一応独立したといわれるが,郷帳類には後町村の名が見えず,公式には当村内に含まれたままであった善光寺町の東方・南方を広く灌漑する鐘鋳堰・八幡堰は当村内で裾花川から分水した善光寺町の発展に伴い,北国街道沿いが都市化し,人口は安永9年738,安政5年1,309と,86年間にほぼ倍増している明治13年には,2,293戸数は,弘化2年に317で,うち本郷134・新田122・石堂61北国街道のほか,小市・小柴見を経て裾花川を渡って新田組西河原で北国街道に合する道がよく利用された文化3年後町下組の商人が十念寺横の作場道(西河原を通らない道)使用禁止を村役人に訴えている明治4年松代県を経て長野県に所属同12年上水内郡に属す同14年南長野町と改称

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7340357 |