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伴野荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。佐久郡のうち。「吾妻鏡」文治2年3月12日条所収の同年2月日の関東知行国乃貢未済荘々注文案では,信濃国の内として「〈院御領〉佐久伴野庄」と見え,本家は後白河院であった。本家職はこののち室町院領を経て持明院統に伝領される。一方領家職は,鎌倉末期と推定される年月日未詳の伴野荘等相承次第によると,鎌倉初期には藤原基家で,そののち娘陳子からその娘式乾門院へと伝えられ,室町院・伏見院の手を経て花園上皇に伝えられた。こののち,元徳2年2月15日の花園上皇院宣案によると,「信濃国伴野庄・下総国葛西御厨」が京都大徳寺に寄進された(以上大徳寺文書/信史5)。地頭職については「吾妻鏡」文治2年10月27日条に「信濃国伴野庄乃貢送文致来……地頭加々美二郎長清日者頗緩怠云々」とあり,また同書同4年9月22日条に「信濃国伴野庄乃貢事……被仰地頭小笠原次郎(加々美長清)之間,令弁償之」とあり,甲斐源氏加々美長清の所領であった。鎌倉末期と推定される年月日未詳の伴野荘内諏訪上社神田相伝系図によれば小笠原氏は当荘地頭として伴野氏を称し,時朝・光時・盛時らの一族が荘内に蟠踞した(大徳寺文書/信史5)。弘安8年の霜月騒動に伴って伴野氏が没落すると北条氏が入部し,嘉暦4年3月日の鎌倉幕府下知状案には,5・7・9・11番五月会の御射山左頭として「佐久郡伴野庄大沢・鷹野郷駿河守跡」「佐久郡伴野庄三塚・小宮山両郷遠江守跡」「佐久郡内伴野庄内」「佐久郡伴野庄桜井・野沢・臼田郷丹後前司跡」と見え,当荘内の郷が北条氏の所領となっていたことが知られる(守矢文書/同前5)。また同年の諏訪大宮造営目録では,外垣10間分の役銭を「伴野庄」が負担している(信叢2)。しかし当荘地頭職は,鎌倉幕府滅亡とともに,元弘3年6月15日の後醍醐天皇論旨によって大徳寺に寄進され,大徳寺は領家職・地頭職ともに合わせもつことになった(守矢文書/信史5)。大徳寺領としての伴野荘の年貢は,建武元年5月10日の伴野荘領家方年貢注文によって領家方年貢の賦課基準が決定されており,牛飼料役別300文・年貢銭段別120文・黒袴分段別107文などの田率賦課の年貢と,牛腹帯・牛鍬・輿車代など1年に2度納入される公事とからなっていた。同年8月21日の官宣旨により当荘は一円不輸の地として諸役を免除されるが,大徳寺の地頭職に反対する伴野弥三郎らによる違乱がやまず,建武2年と推定される2月8日の後醍醐天皇綸旨と同年と推定される5月7日の信濃国宣により,この停止の命令が下されている。また同年9月29日の雑訴決断所牒では,当荘内鞍沢村を本拠とする倉沢弁房らの違乱停止が命じられ,在地武士の押領が相次いだ。しかし一円地としての荘務権を得た大徳寺は,当荘支配の体制を固め,同年10月21日には荘官水沼実真に命じて伴野荘年貢注文案を作成させ,荘内24か郷の村ごとに年貢額を定め,佃の有無を確認している。これによると当荘は,平沢・海野口(現南牧村),保間(現小海町),大石・岩郡・畑物(現八千穂村),鷹野・宿屋・余地・大日向【おおひなた】(現佐久町),春日(現望月町)などの高地性集落と,大沢・伴野・小宮山・県沢(現佐久市)など丘陵突端部に開かれた集落,上臼田・下臼田・臼田原・高屋木・野沢・野沢原・三塚・桜井・下県(現佐久市)など自然堤防上に散在する集落などからなり,周辺の大井荘や平賀郷の所領と複雑な入組み状態となっていた。平安末期以来,佐久郡内に成長していた武士団のうちにも当荘内の各郷を苗字の地とする者が数多く見られる。また建武元年4月11日と同年8月21日の後醍醐天皇綸旨などによると,各郷を別個に知行する在地領主から,領主権を大徳寺に返付させるなど,新領主としての大徳寺の支配は当初困難なものがあった(以上大徳寺文書/信史5)。しかし,建武2年7月25日の伴野荘百姓等麦借用状によれば,元弘3年頃から始められた大徳寺の造営に,伴野荘に人夫役を課し,当荘から上洛した人夫は食料自弁でこれに随うなど,その支配は強力なものであった(徳禅寺文書/保濃39-7)。当荘の年貢は替銭によって納入されており,同年10月13日の伴野荘野沢原郷百姓等請文や同年閏10月8日の伴野荘二日町屋浄阿替銭請取状などによると,各郷の年貢を請負った請人が,荘内の二日町屋などの市庭において換金し,京の地獄が辻・綾小路などの商人を相手として割符を組んだことが知られる(同前)。二日町屋については「絹本著色一遍上人絵巻」弘安2年8月条で,一遍が布教したと伝える「佐久郡伴野の市庭の在家」との関連が考えられ(信史4),同市庭の発展した形態と推定される(県史通史2)。鎌倉期に当荘地頭であった伴野氏による地頭職への違乱は,貞和2年に至っても続いており,9月21日の足利尊氏御教書では大徳寺雑掌の訴えにより伴野長房の年貢抑留が追及されている(大徳寺文書/信史5)。同5年の小槻匡遠書状によれば,役夫工米の賦課田数として「伴野庄二百町」と見え,同年11月27日の大徳寺文書目録に「一,勅施入信濃国伴野荘 綸旨・官符以下 弐拾捌通」とあるが,以後大徳寺領としての記事は見えない(同前/同前6)。下って戦国初期成立の諏訪御符礼之古書では,文安6年・寛正6年・長享2年・延徳元年・文明4年・同8年・同12年・同19年の御符礼料を負担している(信叢2)。一方,康正2年・文明3年・同10年の役負担地として「伴野本郷」または「伴野本郷七村」とあることから,伴野氏館跡の残る野沢郷付近が本郷と称されたものと推定される。永正14年2月15日の年紀を有する諏訪神社所蔵の銅製鰐口銘に「佐久郡伴野庄大日向村奉懸新海大明神御宝殿」と見える(信史10)。享禄3年8月日の伴野貞慶契状では,高野山蓮華定院を「伴野之庄中僧俗貴賤共」の宿坊と定めている(蓮華定院文書/信史10)。天文17年3月23日の武田晴信宛行状には「伴野庄小宮山之内百貫文」とあり,井出縫殿丞に宛行っている(井出文書/同前11)。永禄7年8月朔日の武田信玄安堵状には「佐久郡貞祥寺領伴野之内百貫文之事」とあり,貞祥寺本領として当地内所領が安堵されている(貞祥寺文書/同前12)。天正6年の上諏訪大宮造宮清書帳には,外垣10間分の役銭負担地として「伴野庄」とあり,春日郷・下県郷・小宮山郷・前山郷・大沢郷などが見え,計11貫950文を負担している(信義2)。武田氏滅亡後徳川家康に属した依田氏により当地および「伴野城」などが攻略されている(寛永諸家系図伝/信史15)。中世の伴野荘は現在の南牧村・小海町・八千穂村・佐久町・望月町から佐久市におよぶ広大なものであり,現在の佐久市伴野がその遺称地にあたる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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