100辞書・辞典一括検索

JLogos

29

上野郷(中世)


 鎌倉期から見える郷名。駿河【するが】国富士郡のうち。弘安2年と推定される正月3日付の上野殿宛日蓮書状に「駿河国富士郡上野郷」とあるのが初見(日蓮聖人遺文/鎌遺13355)。日蓮はこの書状で,正月3日に雪深い身延山まで餅90枚・薯蕷5本を上野郷から届けてくれた上野殿に感謝の意を表している。上野殿は当郷の地頭である南条兵衛七郎や南条七郎次郎時光のことであるといわれる。南条氏は伊豆国南条を本貫とする一族で,早くから北条得宗家の被官となっており,上野郷に所領をもったのも,富士郡を支配したといわれる北条時政との関係を考える必要があるかもしれない。南条兵衛七郎は日蓮に帰依し,その子息時光も当地に日興を招き,正応3年に大石寺を建立し,さらに永仁6年には石川氏とともに重須郷に北山本門寺を建立している。永仁6年2月15日の年紀をもつ北山本門寺三堂造立棟札写には大施主地頭石川孫三郎源能忠とともに「大施主南条七郎次郎平時光 同上野之講衆」が見える(北山本門寺文書/県史料2)。延慶2年2月23日の南条時光譲状によれば,時光は,当郷の惣領職を嫡子時忠に譲り(大石寺文書/県史料2),その後まもなく出家し法名大行と称す。時光の子孫からは大石寺の住持となるものも多く,所領は大石寺へ寄進されたりした。南北朝期に入っても,南条高光・南条節丸などの活動が当郷で見られるが(同前),南北朝後期には南条一族はその姿を消す。鎌倉期以来の南条館の跡には日蓮宗妙蓮寺が建立され,寺域には今日も土塁が残っている。南北朝後期から興津氏が当郷の地頭となる。その間に地頭興津美作入道法陽の寄進した大石寺東坊地をめぐって別当卿阿闍梨日時と中納言律師日賢の間で相論があり,当初は今川氏家の口入れで貞治年間から応永初年までは日賢が進退していたようであるが(妙本寺文書/清水市史資料中世),応永12年4月13日の興津法陽去状では西坊地を進退していた日時に東坊地を去渡している(大石寺文書/県史料2)。その後も興津氏の知行は続くが,永享年間には当郷は他人に押領されており,永享7年11月12日の駿河守護今川忠範遵行状により興津美作守国清に還付される。その後の興津文書には当郷のことは見えない(興津文書/県史料2)。戦国期に入ってからの当郷の知行者は不明であるが,大石寺は今川氏の下で寺領を安堵されている(大石寺文書/県史料)。今川氏真没落後はこの一帯は武田氏と小田原北条氏との争奪の地となり,永禄12年12月7日の北条氏政判物によれば,氏政から富士信忠に富士郡内が平定されたら当地を充行うとの約束がなされた(旧大宮司富士家文書/県史料2)。しかし,永禄12年7月5日には当郷に対して濫妨狼藉停止の武田家高札が出されており,氏政の約束の実現は不可能であった(上野妙蓮寺文書/県史料2)。武田氏時代,天正2年11月晦日付の武田家朱印状によれば,当地の甚左衛門以下3名の百姓が江尻城・興国寺城・大宮城などの葺板・材木を提供したので,普請役は免除されている(旧狩宿村之民弥左衛門文書/県史料2)。天正年間,地内の妙蓮寺は6貫400文の寺領を所有し,天正7年2月17日には武田氏家臣跡部勝資から安堵され,その後,天正11年10月5日には徳川家康からも安堵されている(上野妙蓮寺文書/県史料2)。なお,慶長4年9月6日の横田村詮所付覚写によれば,「高五百九拾六石八斗九升七合者 上野村」が浅間神社の社納地とされている(旧大宮司富士家文書/県史料2)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7348126