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梅ケ島村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。安倍郡のうち。駿府藩領,寛永10年からは幕府領。焼畑中心の山村のため検地も受けず,金3両の年貢を金納してきたが延宝4年から1両5石の割合で村高15石とされ,以後その2割~2割4分を米相場に応じて金納。村高は,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに15石。天保8年に焼畑163町5反,蒔種は32石余という。宝永6年の明細帳によれば戸数114・人口596。当村の東側にある十枚峠・苅安峠などを越えて甲斐国巨摩【こま】郡南部村などとの交流が活発で,生活物資の大部分を同村から背負って搬入し,茶や砂金を売って代金にあてた。天明・天保の大飢饉では甲州市川代官所の命令による津留めにより困惑したが歎願が容れられて特例を認められた。天保年間の人口は常時700人ほど,平年の死亡者は10人内外だが,天保7年は33人,同8年は121人が死亡し,91人が他出,同9年の人口は440人となり,回復には20年を要した。寛政の改革以降,備荒貯穀として稗・ソバのほか,ギョウブ(リョウブ)の芽を乾燥して,地内の関ノ沢・本村・藤代・戸持・大代・草木・日影沢の7つの集落ごとに保存していた。関ノ沢には武田氏の血縁と称する秋山家があって代々名主を務めた。その他の集落には組頭がおかれ世襲された。日影沢は通称安倍金山といわれた梅ケ島金山の中心で,中世から金採掘が行われており,今川氏支配下の享禄年間を元栄【もとさかえ】といって盛山をみたという。今川氏が戦国大名として雄飛する財源の重要部分をなしたと推定される。のち徳川家康支配下の慶長年間に再び盛山となり,鉱山開発や鉱夫の特権などを規定した山例53か条は,この頃に同金山で出されたものとされ,のち全国の鉱山の聖典として広く流布した。また当時の産金により駿河小判が鋳造されたと伝えられる。のち幕府直営から村請けになったが,貞享元年に駿府城下の町人桑名屋六郎兵衛ら28名が5年間を請け負い,年季が明けてからは鉱道を閉鎖された。その後,年15両で当村と入嶋【にゆうじま】村が請負ったり,桑名屋が再び請負ったりし,享保16年から5年間は江戸町人和久屋源左衛門が試掘したこともある。請負者がない期間は村人は追掘役金を上納して廃鉱石や砂金の採取を行い,小さな玉にして駿府や甲州南部の商人に売っていた。宝暦9年から産金は代官所一括買上制となり村内に買集め世話人がおかれた。それ以後の産金額は,安永2年の4貫621匁余,代金1,355両を最高とし,以後年々減少して天保3年には3匁余,代金1両となっている。金掘りは飢餓対策もあって坑道の再開発をはかり,寛政年間には代官所からの貸付金を得て試掘を始めた。同4年には村内145軒のうち,金掘36軒という。しかし同年夏に土砂崩れにより集落が大被害を受け,鉱脈にもあたらずに採掘作業は次第に中止され,住民の多くは安倍川対岸にある大谷崩れの堆積土の上に移住した。これが現在の新田の集落である。また村内にある鋳物師山・仏山・天神森は鷹が巣をかけるので留山とされ,寛永7年に2巣が献上されたのをはじめ,以後宝暦12年までに7回にわたり献上の記録がある。この3山は貞享元年から御林に定められ立木すべてが帳づけされて管理され,安永3年には久能山東照宮修復の用材を切り出した(駿河国新風土記)。当村の北端にある温泉は近世初頭にはすでに知られており,横田村詮の文禄5年湯銭の定によれば,1人につき鐚は50文,米は京枡3升とされていた。温泉の施設は村持ちとされ,期間を限って希望者に請け負わせた。寺社は曹洞宗宝珠院・日蓮宗蓮久寺・白髭社のほか,各集落に小社を祀る。大代集落の天神社は,当地で討たれた遠江【とおとうみ】国梅地村の築地弥三郎主従の霊を祀ったもので,のちその子孫が参拝して遺品の長刀を持ち帰った(筑地家文書)。新田の稲荷神社は幕末に疫病除けに祀られたもので,祭日の初午の日にはソバを食べる習慣がある。明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),同4年静岡県に所属。明治22年梅ケ島村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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