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阿知和郷(中世)


鎌倉期~戦国期に見える郷名三河国額田【ぬかた】郡のうち阿智波・阿知波とも書く矢作【やはぎ】川の支流青木川と真福寺川が合流する付近から東の丘陵地で,青木川に沿ってその両側に広がる古くは「鴨田郷厚石里」(平城宮木簡概報7)であったとみられる嘉禄2年4月の高階惟行・坂上惟伴連署田地寄進状に瀧山寺惣持禅院へ「阿智波郷名越影基跡」の田8反を寄進すると見える(瀧山寺文書/岡崎市史6)14世紀初頭成立の瀧山寺縁起によると,国司藤原憲長と瀧山寺衆徒が「阿知波郷」が国領か寺領かをめぐって争ったことが見えており(同前),憲(顕)長の国司時代の12世紀中葉には中世的な郷として成立していたと考えられる熱田大宮司藤原範忠が滝山寺の四至を定めた時には阿知波郷も寺領の内とされたらしい滝山寺に一切経蔵ができ経会が始まるのは正嘉元年からであるが,同縁起に額田郡地頭足利頼氏は阿知波郷を一切経会の料所としたと見える(同前)こうして長く瀧山寺領として存続した阿知波郷も,瀧山寺の衰退に伴って戦国期には周辺の諸勢力に侵害されるようになった明応7年9月3日岩津大炊助・同源五連署寄進地目録写に開花院領の田2反が「阿知和南方藤代」にあったことが見え(大樹寺文書/同前),天文15年12月22日鍬谷孫三郎は「あちは弐石七斗目,同はた四百目」を20貫文で岡崎けいたくに売却している(三川古文書/同前)岩津・鍬谷は松平一族また「阿知和宮崎」の田地2石5斗5升成は最初,中山大井野信正が祠堂銭21貫文で公方年貢とともに同16年2月26日に大樹寺へ売却したが,この土地は複雑な権利関係にあったらしく,同年7月4日に遠山景前から大樹寺宝樹院へ寄付され,公方年貢取得者の滝菩提坊から永禄2年8月8日に宝秀(樹)院へ本年貢が寄進され,同9年3月に至って松平家康から宝樹院領として安堵されている(大樹寺文書/同前)当郷にはほかに安養院領(参州岡崎領古文書天正16年10月24日五十分一米銭請取状写/同前)や「西あちわ村」に16俵2斗9升1合7勺1才の五井松平伊昌領があった(長泉寺文書天正18年2月5日知行書立写/同前)松平右近の城があった(三河国二葉松)江戸期の西阿知和村・東阿知和村に相当する




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7354185