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小河村(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える村名。尾張国知多郡のうち。文永2年12月7日の将軍家政所下文案によると「尾張国英比郷内小河村一宮住人」の雅継源法師が当地の地頭職に任じられている(塩尻7/鎌遺9430)。同7年11月15日の僧定成小河村米送状によれば,同年分の「小河村御米」を醍醐寺に運上するに際し,梶取貞末法師代藤三郎包遠に託している(醍醐寺文書/同前10730)。翌8年4月2日の定成小河村用作米送状でも,文永7年分の「小河村用作米」が醍醐寺へ運上されている(同前/同前10812)。文和2年7月日の尾張国郷保地頭正税弁済所々注進状案に「小河村 六貫八百文 小河」と見え,南北朝期までは醍醐寺領として存続した(醍醐寺文書4/大日古)。「太平記」巻35尾張小河東池田事によると,延文5年8月4日,当地の在地土豪小河中務丞が仁木義長に荷担して「尾張小河庄ニ城ヲ構テ楯籠リ」土岐直氏と戦い,敗死している。応永年間には建仁寺領ともなったらしく,「一庵大禅寺行状」に「尾之小河村」ほかが建仁寺霊泉院領として見える(禿尾長柄帚/大日料7‐9)。なお,文明7年には水野貞守が小河城を築きその守護として宇宙山乾坤院を創建したという(東浦町誌)。文明・延徳年間の成立とされる乾坤院所蔵の「血脈衆」「小師帳」によると,小河からは24人に及ぶ在地の土豪層・男女農民が乾坤院の催す授戒会に参加しており,在地禅院の布教活動と民衆の関係がうかがえる(中世禅僧と授戒会/民族史学の方法)。水野氏の小河城には,万里集九が文明17年の東国遊覧の折に立ち寄ったとみられ,「梅花無尽蔵」第6に「小蓬莱有小河城。小河城之主盟号水野藤之為妙。威名耀々。振華之間。列国之諸侯。命争修盟通好」と讃えている(続群12下)。明応8年5月18日,飛鳥井雅康は富士遊覧の途中,当地を訪れ「う(ちカ)たの郡緒川水野右衛門大夫為則が在所に着侍り」と述べ,数日滞在した折,「松のうへにくるてふ糸のいく結ひ玉のを川の末あけてみむ」と詠んでいる。また24日には「を河より舟にて三河へ行侍りしに」と見え,舟運の発達もうかがえる(富士暦覧記/群書18)。下って永禄10年7月10日,連歌師里村紹巴も富士遊覧のため東国への旅行の途中,当地を訪ね「緒川の御城へ参宮(ママ)して」いる(紹巴富士見道記/同前)。また,「家忠日記」天正15年正月24日条には「初鯨緒川より越候」と見える。なお,天正12年頃の「信雄分限帳」には水野宗兵衛の知行地1万3,000貫文のうち「五千九百九十七貫五百卅五文緒河領之内」と見える。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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