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玉江荘(古代〜中世)


平安期~室町期に見える荘園名尾張国中島郡あるいは海西郡のうち殿下渡領中の勧学院領「権記」長徳元年10月24日条に「勧学院所領尾張国玉江庄司被殺害日記」とあり,翌10月25日条に,玉江荘司を殺害した犯人が平季満であることが記されている嘉元3年4月頃の摂籙渡荘目録には「〈(菅原)在雅〉尾張国玉江庄〈東田二十五町三段三百歩・中田十六町二段百歩・西田七町四段八十歩〉」と見え,暦応5年正月日の同目録によれば預所は橘大夫以範とある(九条家文書1)元弘3年~建武2年頃の足利尊氏・同直義所領目録によると大仏貞直の遺領を没収して足利尊氏の所領となっているが(比志島文書/南北朝遺中国・四国編215),これは地頭職であろう文和3年4月23日の熱田社領目録案に「〈長山押領云々〉玉江庄」と見え,中島郡内で14町4段30歩の熱田大宮司当知行地があったが守護土岐氏被官長山頼基に押領されていた(熱田神宮文書/大日料6‐19)明徳元年5月6日の足利義満御教書によると,美濃瑞巌寺に当荘領家職が安堵された(瑞巌寺文書/岐阜県史史料編古代中世1)また室町時代と推定される名古屋市法泉寺宝篋印塔基礎銘に「右海西郡玉江庄江田正覚禅尼」とある(尾張石文)中島郡内とすれば式内社鞆江神社の所在地尾西市明地とも考えられるが未詳




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7358686