中島郡

尾張における太閤検地は天正20年前後に開始されたといわれるが,この検地帳はほとんど現存しない。尾張藩が高概を行った時に回収したともいわれる。「駒井日記」によれば,文禄2年豊臣秀吉は尾張に「尾州国中郷置目」「御諚覚」などを触れ,天正13・14年の地震,同14年の洪水などによる田畑荒廃を復興させることを指示し,当郡には道茂・宮木藤左衛門・藪九介などの奉行が派遣されている。江戸期に入ると,慶長13年に尾張一国の総検地が行われた。伊奈備前守忠次などによって行われたことから備前検と呼ばれるが,板葺村などに検地帳が残っている。この検地は,慶長12年に死去した松平忠吉の跡を継いだ徳川義直により実質的に成立した尾張藩の基礎を固める意義も有していた。天明年間の藩政改革によって所付代官所が設置され,当郡は北方・鵜多須・清洲の各代官所の支配下におかれた。「寛文覚書」によれば,村数155,本田の元高7万7,709石余・概高11万1,387石余,新田の元高6,286石余・概高7,025石余・高3,398石余,寺社領は領高内355石余・領高外621石余,反別は,本田が田3,345町余・畑4,016町余,新田が田367町余・畑505町余,寺社領が領高内新田田16町余・畑4町余,領高外田17町余・畑48町余,見取場は田5町余・畑8町余,給人自分起は田14町余・畑22町余・田畑14町余,家数9,893・人数5万7,275,馬2,871・牛2。「張州府志」では,家数1万7・人数5万7,634,公領7万7,748石余・寺社領618石余。「徇行記」によれば,村数163,元高8万3,787・高12万3,212。「天保郷帳」では村数167,高8万2,252石余,「旧高旧領」では村数164,高12万4,229石余(うち社寺分646石余・犬山藩領分4,158石余・美濃今尾藩領分5,444石余・尾張藩領分11万3,979石余)。「天保郷帳」に見える村名は,北市場村・西市場村・増田村・日下部村・六角堂村・井之口村・長束【なづか】村・小池正明寺村・下津村・赤池村・陸田村・長野村・高御堂村・次郎丸村・子生和【こうわ】村・妙興寺村・苅安賀村・宮地花池村・一之宮村・毛受【めんじよ】村・本神戸村・馬寄村・新神戸村・一色村・馬引村・福森村・宮後村・野府村・小原新田村・奥村・小信中島村・宮新田村・苅安賀新田村・大平村・籠谷村・籠谷新田村・板倉村・東五城村・西五城村・今村・朝宮村・冨田方村・花井方村・林野村・河田方村・北高井村・南高井村・戸塚村・氏永村・島村・国府宮村・松下村・小沢村・稲葉村・稲島村・於保村・木全【きまた】村・石橋村・東宮重村・西宮重村・中島村・高木村・二子村・串作村・萩原村・西之川村・西萩原村・起【おこし】村・冨田村・蓮池村・吉藤村・祐久村・阿古井村・戸苅村・築込村・横野村・高松村・滝村・西御堂村・天池村・竹腰村・清水村・浅井村・下屋村・西島村・中野村・平村・山口村・馬場村・法花寺村・舟橋村・矢合【やわせ】村・小寺村・横地村・桜木村・重本村・池部村・平野村・梅須賀【めすか】村・北島村・大塚村・奥田村・有松村・中之庄村・米屋村・七ツ寺村・堀田村・大矢村・込野村・付島村・千代村・堀之内村・福島村・牛踏村・北麻績【きたおうみ】村・南麻績村・西溝口村・野崎村・板葺村・今村・坂田村・目比【むくい】村・氷室村・城西村・娵振新田【よめふりしんでん】村・東城村・三宅村・井堀村・儀長村・鷲尾村・片原一色村・丸淵村・須ケ谷村・平池村・法立村・横池村・西光坊村・勝幡新田【しよばたしんでん】村・塩川新田村・塩川山新田村・下起村・下丸淵新田村・中丸淵新田村・上丸淵新田村・甲新田村・森上新田村・山崎村・玉野村・上祖父江【かみそぶえ】村・海老海道村・中野村・下祖父江村・中牧村・上牧村・桜方村・二俣村・寺内村・大牧村・中島新田村・甲山新田村・柿木島村・本郷寺内村・東鵜之本村・西鵜之本村・野田村・四貫村・神明津村。農業中心の地域で,牛蒡・茄子・人参・山芋・フキ・大根・薑・生姜・松露・切干大根・松苗・杉苗などが特産で,下小田井村の青物市場へ出した。一宮村には享保年間から六斎市が立ちにぎわった。このほか苅安賀村・起村・稲葉村などにも六斎市が立った。また,明和年間頃京都西陣から伝えられた桟留縞(綿),天明年間には同じく京から菅大臣縞,文政年間に関東の結城から伝えられた結城縞(絹綿交織)などは尾州縞ともよばれ,一宮村・奥村(現一宮市),起村・吉藤村(現尾西市),祖父江村方面で盛んに生産された特産物の1つで,京・大坂・東国へも売りだされて広く知られた。交通路は東海道の宮宿(熱田)と中仙道の垂井宿を結ぶ美濃路があり,当郡の南東端から北西へ抜ける街道で,郡内に稲葉・萩原・起の3宿が置かれた。稲葉村・小沢村の2か村からなる稲葉宿は,文政4年家数338,うち本陣・脇本陣各1,問屋は小沢と稲葉の両村にあり,問屋場は3か所に設置された。旅籠屋7軒,人数は1,435人。萩原宿は天保14年には加宿ともに家数236・人数1,002,本陣と脇本陣各1,大きな旅籠屋はなく,小11軒・中6軒の計17軒(東海道宿村大概帳)。起宿は元禄15年の起宿絵図では宿内6町28間,本陣・脇本陣各1,問屋2軒。天保12年の村絵図よると家数230・人数1,033,馬8とある。また起には渡し場が置かれていたので,船庄屋1・船方肝煎3・船頭20がおかれ,陸上・水上の交通路の拠点として栄えた在郷町であった。郡内の東方を南北に通る岐阜街道は,美濃路の立場であった四ツ家を追分とし,下津・一宮・黒田を経て岐阜へ通じる主要街道であった。追分に建てられていた文政2年の道標が長光寺門前に今も残っている。明治4年戸籍法発布当時の村数は162。同5年愛知県に所属。同10年地租改正の際廃合して147村となり,この年の戸数2万1,117・人口9万5,034。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7359405 |