角川地名大辞典(旧地名) 愛知県 21 碧海郡 明治11年~昭和45年の郡名。明治11年郡区町村編制法により近代の郡として改めて発足。郡役所は知立村。明治17年の町村名は,知立・一ツ木・小山・築地・刈谷・熊・高津波・元刈谷・小垣江・吉浜・高浜・北大浜・北棚尾・大浜・棚尾・平七・前浜新田・伏見屋新田・伏見屋外新田・鷲塚・東端・根崎・西端・高取・和泉・高棚・榎前・上重原・下重原・西中・野田・半城土・高須・谷田・八ツ田・篠目・箕輪・福釜・赤松・米津・城ケ入・南中根・古新田・新々田・藤井・木戸・野寺・寺領・下中島・高畑・安藤・福桶・上三ツ木・下三ツ木・正名・国正・中・定国・坂左右・上和田・宮地・井内・野畑・下和田・赤渋・中ノ郷・土井・牧御堂・法性寺・合歓木・高橋・上青野・下青野・在家・小川・姫小川・東町・古井・桜井・堀内・島・坂戸・河野・川島・村高・安城・東別所・西別所・山崎・別郷・大岡・北山崎・高木・上条・新堀・富永・桑子・西牧内・池端・小望・館出・筒針・東牧内・渡・上佐々木・下佐々木新田・矢作・東本郷・西本郷・北東郷・暮戸・橋目・森越・舳越・中園・東大友・北野・国江・中切・宗定・隣松寺・阿弥陀堂・配津・上中島・川端・渡刈・鴛鴨・西田新郷・大林・永覚新郷・桝塚・上野・和会・尾崎・宇頭・柿崎・小針・西大友・里・大浜茶屋・宇頭茶屋・広畔新郷【ひろくてしんごう】・福受新郷・牛田・来迎寺・今・中田・駒場・花園・八ツ橋・竹・若林・北中根・吉原・堤・乙尾・東境・西境・井ケ谷・逢見(県史3)。同21年の戸数2万5,381・人口11万6,321,主な職業別戸数は農業2万232・漁業461・工業787・商業1,400(同前)。同22年市制町村制施行により,知立町・上重原村・下重原村・刈谷町・元刈谷村・小垣江村・吉浜村・高浜村・北大浜村・大浜町・志貴崎村・棚尾村・鷲塚村・根崎村・東端村・西端村・高取村・高棚村・和泉村・城ケ入村・米津村・三ツ川村・小川村・桜井村・古井村・赤松村・福釜村・箕輪村・野田村・長崎村・安城村・平貴村・中郷村・藤野村・阿乎美【あおみ】村・中島村・占部村・糟海【かすみ】村・本郷村・矢作村・長瀬村・志貴村・里村・今村・牛橋村・若園村・和会村・上野村・桝塚村・畝部村・寿恵野村・竹村・堤村・駒場村・境村・逢見村・一ツ木村・小山村・逢妻村の3町56か村となる。同23年高棚村の一部から榎前村が成立し,同24年には藤野村の一部から志賀須香村,境村の一部から東境村,志貴崎村の一部から伏見屋村が成立。また,同年下重原村が分離して半高村と重原村,阿乎美村が分離して合歓木村・青野村が成立。同25年北大浜村が改称し町制施行して新川町となる。同26年矢作村,同33年高浜村が町制施行,同45年市制施行。明治29年糟海村の一部から中井村が,同34年本郷村の一部から渡村が成立。同39年県の訓令により各町村の合併が行われ,高浜町・知立町・安城町・矢作町・桜井村・明治村・依佐美村・刈谷町・富士松村・大浜町・新川町・棚尾村・旭村・上郷村・高岡村・六ツ美村の7町9か村となる。大正12年郡制廃止を施行し,以後は地域称として存続。同13年棚尾村が町制施行。昭和23年大浜町・新川町・棚尾町・旭村が合併して碧南市が成立。同25年刈谷町,同27年安城町が市制施行。同30年矢作町が岡崎市に,明治村が西尾市・碧南市・安城市に,依佐美村が刈谷市・安城市,富士松村が刈谷市に合併。同31年桜井村・高岡村が,同33年六ツ美村が,同36年上郷村が町制施行。同37年六ツ美町が岡崎市に,同39年上郷町,同40年高岡町が豊田市に,同42年桜井町が安城市に合併。同45年知立町が市制施行し,当郡は廃止。明治16年頃大浜村には賃織の織物業者が起こり,機業が盛んになった。やがて手紡機も動力機に代わり,工場経営者が増加した。江戸期から行われた綿作も次第に姿を消した(大浜町誌)。また瓦業は大正末期真空土練機やトンネル窯の発明により,盛業を続けた。郡の教育の中心は刈谷で,明治16年碧海郡立高等学校が刈谷に開校。地方立の高等学校として数少ない学校であったが,同19年の教育令改正に伴い,翌年から碧海郡立高等小学校となった。同22年東海道線が開通し,刈谷・安城に駅を設置。大正3年には,これと交差して刈谷~大浜間に三河鉄道が開通,翌4年には知立まで延長された。碧海台地は水利の便が悪く,多くの溜池によってこれを補ったが,幕末に近い頃の都築弥厚の開発計画は,伊予田与八郎・岡本兵松に受け継がれ,明治13年県により明治用水として完成。これにより開発は急速に進み,安城を中心に米麦のほか果樹・蔬菜・養畜・養蚕などを組み合わせた多角型農業が行われて,日本のデンマークとして知られた(明治用水)。大正13年豊田紡織刈谷工場が刈谷に設けられ,刈谷町が工業都市として躍進するきっかけとなった。昭和34年頃から工場誘致が活発化し,日本のデンマークの形態は崩れ,急速に都市化が進んでいる。さらに同39年から衣浦港の整備が進められ,国際港として外国船の入港も見られる。世帯数・人口は,大正9年2万9,748・14万831,昭和25年3万2,859・17万3,435。 KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」JLogosID : 7360992