市瀬村(近世)

江戸期~明治22年の村名。伊勢国鈴鹿郡のうち。はじめ亀山藩領,元和元年幕府領,寛永13年から再び亀山藩領。枝郷に新茶屋が見える(三国地誌)。村高は,「文禄3年高帳」「元禄郷帳」で122石余,寛永検地帳147石余,「天保郷帳」「旧高旧領」は202石余,「亀山領細記」によると新田高23石余・茶桑銭代物782文,「石高風土記」では新田高34石余・山年貢米5俵余。助郷として東海道坂下宿に出役した。村内には34町歩余にのぼる藩の留山があった(同前)。江戸初期の家数37・人数182(九九五集),延宝4年34軒・133人(御領分雑記),享保2年42軒・202人(石高風土記)。氏神は,はじめ牛頭天王祠とよんだ市之瀬社。枝郷弁天には朝日弁財天祠があった。寺院は浄土真宗本願寺派西願寺。枝郷の新茶屋は,関・坂下両宿の中間にあって,四軒茶屋とも俗称された東海道の立場であった。明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。願訴留によると,同年の戸数39・人口148(うち男67・女81)。同12年新所村市瀬村戸長役場,同17年新所村外4か村戸長役場を設けた。同22年坂下村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7362921 |