答志村(近世)

江戸期~明治22年の村名。志摩国答志郡のうち。鳥羽藩領。小浜組に属す。村高は,延享3年,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに357石余。延享3年の家数278・人数1,212。享保3年の浦役銀1,350匁。字殿山に美多羅志神社,字二ツ葉に八幡神社がある。美多羅志神社の祭礼は正月4日で獅子舞神事が行われ,八幡神社の正月18日の祭礼には弓引神事が盛大に行われる。字寺田にある曹洞宗白華山潮音寺は三河国伊良湖堀切の常光寺の末寺で,もとは長者ケ谷にあり観音堂もあったが,その後衰退し,大永7年常光寺の僧是秀が現在地に移した。字井戸奥にある浄土宗信楽山本誓寺は智恩院末寺で釈迦堂があり,「内宮引付」に見える答志之竜泉寺は同寺の前身といわれる。字和具の大崎山洞仙庵も伊良湖常光寺末寺で,境内の地蔵堂は潮音寺の観音堂,巨景山海蔵寺(常光寺末寺で現在は廃寺)の大日堂と並び称された。洞仙庵はまた九鬼水軍の大将嘉隆自殄の地としても有名で,嘉隆の胴は里の奥築上に埋められて胴塚と呼ばれ,首塚は南の山頂にある。洞仙庵はその後廃寺となる。答志の土豪であった渡辺数馬は九鬼嘉隆に属して九鬼数馬と称し,九鬼氏転封の時に三田へ付き従った。明治4年度会【わたらい】県,同5年三重県に所属。同22年答志村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7366137 |