八田藩(近世)

江戸期の藩名江戸中期から伊勢国三重郡東阿倉川(四日市市東阿倉川)周辺を領有した譜代極小藩東阿倉川村に陣屋を置き,東阿倉川藩ともいう文政9年からは上総国一宮に陣屋を移したため,一宮藩と称する陣屋所在地からいえば東阿倉川藩と呼ぶのが正確だが,員弁【いなべ】郡内の所領がもと治田【はつた】(八田)郷と称したことにちなんで八田藩と呼ばれることが多いなお,本書では江戸期を通して八田藩の名称を用いた享保11年伊勢・下総両国において2,000石を知行していた幕府側用人加納久通が,伊勢・上総両国のうちで8,000石を加増されて大名に列せられ,立藩した加納久通はもと紀伊徳川家の家臣で,享保元年吉宗の将軍宣下にともなって旗本に復し,側用人を勤めていたのである大名となった加納氏は,参勤交代を行わない定府大名で,藩主は久通のあと久堅(~天明6)・久周(~文化5)・久慎(~文政4)・久儔と続き,久通・久堅は若年寄,久周は若年寄格側御用取次,久慎は大番頭,久儔は奏者番を勤めた表高(公称高)ははじめ1万石であったが,寛政8年久周の時に上野国内で3,000石が加増されて1万3,000石となり,これに対する内高(実高)は1万6,000石余藩領は,1万石のときは三重郡内4村・員弁郡内8村・多気郡内3村および上総国長柄郡内10村・下総国相馬郡内5村,1万3,000石のときはこの5郡内30村と上野国佐位郡内5村・新田郡内7村とで構成された久堅は若年寄として活躍していたため,屋敷類焼の際には金5,000両,天明2・3年の領内凶作に際しては各2,000両を幕府より恩貸された治田は銀・銅鉱山として栄え,はじめ幕府領で銀山奉行の支配であったが,享保5年以後は民営となり,八田藩領時代からは漸次衰微した天保4年,領内治田郷垣内村の庄屋谷口半治ら3名は代官に願い出て御国益と称して入会地の治田山に植林し,また原野の開墾を計画したが,これに対し村民は入会権・下刈権の侵害を訴え3名の居宅を破壊して暴行,住職や医師の調停で和解した文政9年久儔のとき飛地領の上総国一宮に陣屋を移築し,以後は一宮藩と称した久儔のあと藩主は廃藩まで久徴・久恒・久宜と相続し,久儔は伏見奉行,久徴は若年寄を勤めた天保年間までは定府大名であったが,弘化年間からは半年ごとに参勤交代を行う大名に昇格弘化元年軍制改革を行い,領内の海岸に砲台を構築した明治4年廃藩となり,伊勢国内の藩領のうち三重・員弁両郡は一宮県を経て安濃津【あのつ】県となり,同5年三重県に所属し,多気郡は一宮県を経て度会【わたらい】県となり,同9年三重県に編入された

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7367056 |