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壬生野郷(中世)


 平安末期から見える郷名。阿拝郡のうち。12世紀前半,郷内に春日若宮常灯料所壬生野荘が存在。国司は新立荘園としてしばしば停廃を企てたが,保延ころ春日社領として確立したようである。「吾妻鏡」元暦元年5月24日条に宇都宮朝綱が「拝領伊賀国壬生野郷地頭職」とあるのが初見で,平家没官領である。この年の7月,平田家継ら伊賀・伊勢の平家家人が挙兵したが,「源平盛衰記」(巻41)はこの蜂起の首謀者の1人として当所の住人壬生野新源次能盛の名をあげている。同書によれば,彼は「伊賀壬生野」によって兵を集め,家継らとともに近江に進出したが,甲賀郡油日の合戦で敗死したという。鎌倉期に入り,地頭の朝綱,続いて孫の頼綱が春日社領壬生野荘に対し地頭と号して押領を企て,春日社・興福寺の訴訟を招く。興福寺僧信賢の訴えをうけた幕府では建保4年12月「不能関東御成敗,於記録所,被遂対決,可宜之由」の判断を下した(三長記元久元年4月8日条/荘園志料,吾妻鏡建保4年12月8日条)。その後の経過は判明しないが,現地での地頭の勢力拡張は続けられた(大和春日神社文書/鎌遺3737)。下って明徳2年9月28日の西大寺諸国末寺帳に「〈三部野〉大聖寺」とあり,当地に西大寺末寺の大聖寺があった(極楽寺文書/神奈川県史3巻上)。戦国期の元亀4年頃と推定される某書状断簡に,「今度之あしかる衆ちやうしの儀,惣国ヘハ不相届段眼前候,見ふの・さなこ・河井三里へ,右之旨㝡前従郡中申送候ヘ共,惣国ヘハ不相届候」とあり,当地の土豪が佐那具・河合の土豪らとともに連合を形成し,伊賀惣国一揆に加わっていたことが知られる(神宮文庫所蔵山中文書)。天正伊賀の乱では「壬生野一族(壬生野の一揆)」は春日山へたてこもり,藤堂将監らの軍勢に抗戦したと伝えられる(校正伊乱記)。なお,伊賀町大字川東の春日神社の南の丘陵には壬生野城跡が残る(三重の中世城館)。現在の伊賀町川東・川西・山畑に比定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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