上久世荘(中世)

鎌倉期~戦国期に見える荘園名。山城国乙訓【おとくに】郡のうち。現在の京都市南区久世上久世町・久世川原町・久世高田町にあたる。南北は6町で乙訓郡の13条に収まり,東西は12町で2つの里にまたがる典型的な条里制村落で,南北朝以降はほぼ全域が東寺の支配を受け,京都近郊には珍しい一円性荘園である。はやく「和名抄」には「訓世郷」という郷名が見えるが,それが平安期から鎌倉期にかけての開発の進展に伴って,上久世荘・下久世荘・東久世荘(築山荘)・本久世荘(大藪荘)に発展・分割されたものと考えられる。荘名の初見は上久世荘重弘名の名主職を進止(士)入道信蓮に宛行った永仁7年3月8日の宛行状である。久世上・下荘は鎌倉末頃は得宗領として北条氏の支配を受けたが,その滅亡後は一時久我家の所領となった。しかるに九州から上洛した足利尊氏は「天下泰平 国家安寧」を祈って,建武3年7月1日,久世上下荘地頭職を東寺鎮守八幡宮に寄進,以後当荘は戦国末期にいたるまで東寺領最大の荘園として,その支配を受けた。暦応3年の土地台帳その他によると,当荘の田地は52町1反余,畠は6町5反余で,中世を通じて所定の年貢は228石,公事銭30貫文のほか,人夫役・藁・糠などの雑税を負担した。この地の開発領主を称するのは,下司職を相伝した壇上氏であるが,南北朝期になると下司職を失い衰えていった。代わってこの地に威を張ったのが真板(舞田)氏である。真板氏の祖大弐房覚賢は,建武3年9月5日,軍功の賞として足利尊氏より,上久世荘領家職半分を地頭職として与えられ,御家人に列せられた。これが半済であるが,やがて幕府から半済停止が命ぜられると,真板氏はこの地における経済的基盤を失って御家人の列をはなれ,代わって東寺の公文となり,1荘官として東寺に忠勤を励むようになる。しかし室町期になって,管領細川氏の被官寒川氏が,主家の威を借りて当荘の公文職をうかがうようになると,真板氏は同じく管領家の1つ畠山氏を頼って対立し,両氏の間で激しい相論を展開した。当荘は,西岡と呼ばれる京都西郊の沃野地帯にあり,また山陽・山陰両街道にも近く,交通の便に恵まれていた関係から経済が発展し,そのため早くから高利貸資本の影響を受けることが多く,農民の意識も高かった。そこで年貢の減免や非法荘官の罷免を要求する荘家の一揆や,また高利貸資本の収奪に反対する土一揆が頻発した。これらの農民の寄合や集会の場所として選ばれたのが蔵王堂であるが,これらは中世以来そのままの地に現存し,また現在の綾戸社の名も中世の史料に見える。長禄3年9月の末頃,西岡一帯に土一揆蜂起のうわさがあったので,幕府は東寺に命じて,その寺領である久世上・下荘の荘民から土一揆に張本・与力しない旨の起請文の提出を命じた。長禄3年9月30日付の起請文の案文が現存するが,ここには上久世荘の侍分(地侍)21人・地下分(百姓)85人計106人,下久世荘侍分11人・地下分56人計67人,総計173人の名前が見られる。そしてこの起請文においては侍分と地下分が,それぞれ別の料紙に署名していることが注意される。また寛正3年11月にも同様の起請文が見られ,ここでは侍分・地下分の区別なく一緒に署名しているが,上久世荘は88人,下久世荘は62人の名前が見られる。この2つの起請文の間には,人数にわずかの違いが見られるが,大体このあたりの数字が,当時の両荘における成年男子の総数ではなかろうか。いっぽう灌漑用水の利用・管理や,桂川の舟運などの事柄は,1荘という範囲をこえて広く数か荘の地域的な結合を必要としたから,いっそう農民の意識の高揚をうながした。しかし,応仁・文明の乱には,この地は交通の要衝であった関係からたびたび戦場となり,また寒川・真板その他の地侍層も,それぞれの利害に応じて東軍あるいは西軍に味方して,複雑な動きを示した。戦国期になると荘園の内部ではこれら地侍層が実力をたくわえ,公文寒川氏をはじめ和田・利倉・長谷川・恋川などの諸氏の動きが活発となり,また外部からの武士の荘園侵略も積極化した。そのため東寺への年貢は漸減し,やがて寺領としての実が失われてしまう。かくして天正13年3月10日,当荘はほかの山城国内の東寺領荘園とともに,豊臣秀吉から安堵を受けるが,これを最後にやがて東寺の手を離れ,約250年におよんだ東寺領荘園としての歴史に終止符を打つのである(以上,東寺百合文書)。昭和50年7月,上久世町城ノ内の地に現在の久世西小学校が建設されることになり,発掘調査が行われた結果,鎌倉期から室町期にかけての遺構・遺跡が発見された。すなわち豪族のものと思われる屋敷をはじめそれを囲む堀や建物24棟・井戸9基その他柵・用水路,また瓦器をはじめ多数の陶磁器・木器類が発掘され,遺跡・遺物の面からも中世の上久世を解明する手掛かりを得た。現在これを上久世城ノ内遺跡とよんでいる。当荘においては,元亨4年・建武3年・暦応3年・延文2年・永正4年と,5度にわたって1荘規模の土地台帳が作成されたが,そのうち元亨4年のものには以下の小字名が見える。池内・ヰセキ・井坪・榎本・大曲・岸本・五坪・小寺・駒白・薦淵・蔵王堂田・サカミ門・三十坪・四反田・四坪・島前・神田【じんでん】・李【すもも】・高田・塚本・堂前・猫間・橋本・八反田・吉田・六反田(以上地名現存のもの),梅坪・門脇・堤・堤副・長土呂【ながどろ】(以上地名推定可能のもの),足尾・綾織・アラホリ・井田・クロマハリ・御所西・嶋田・下久世前・ソフソフ・竹副・壇下・塚脇・出口・豊口・中垣内・中田・長田・中フケ・野々神・堀・溝副・横畔・和市田・良宮前(以上地名現存しないもの)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7375168 |