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川島荘(中世)


 平安末期~戦国期に見える荘園名。葛野郡のうち。革嶋あるいは河嶋荘とも書く。仁平3年11月,左大臣藤原頼長の春日詣でにあたって革島から屯食一具を負担しており(台記別記),頼長の所領であったことを知る。保元の乱後これは没官されて後院領となり(保元2年3月25日太政官符/兵範記),それが七条女院に伝えられ,安貞2年8月5日それは修明門院に譲られた。修明門院は建長7年その御領を嫡孫の四辻宮善統親王に譲り,善統親王はそのうち21か所を弘安3年に,また河嶋荘を含む残る17か所を正応2年に後宇多上皇に寄進した。正和3年7月3日,尊治親王(後醍醐天皇)は河嶋荘などの17か所を善統親王に返却した(以上,東寺百合文書)。一方建長5年10月21日の近衛家所領目録には,京極殿領(藤原頼通の子師実)として革嶋が見える(近衛家文書)。中世においては必ずしも厳密に使いわけられていたとはいいえないが,川島という場合はこの地の総称であり,革嶋という場合はその一部の近衛家領革嶋南荘をさすのである。領有関係についても必ずしも明確ではない。応永7年正月18日高野山金剛峯寺々領注文には「山城国河嶋〈御影堂領〉」と見え(金剛峯寺文書),また応永7年4月の金剛峯寺御影堂奉納御物文書新定目録には「山城河島文書〈桂庄也〉」とあり(高野山文書続宝簡集),当地が金剛峯寺と何らかの関係があったことがわかる。さらに康正3年のものと推定される西岡諸所本所注文には「かわしま」として「三条殿様 さいおん殿様 やましな殿様」という3つの本所が記されている(東寺百合文書)。降って文明10年5月8日には,応仁・文明の乱の終息に伴って足利義政御判御教書で建仁寺知足院の寺領が安堵されているが,その寺領目録に「河嶋院御庄并下司職 当国」と見え,またその散在田畠も河嶋にあったことが知られる(両足院文書)。また「政所賦銘引付」によると嵯峨花徳院と金栗院が河嶋郷6町を争っており(文明11年10月20日および同12年11月19日条),革嶋宣久が河嶋南荘田畠2町60歩を持っていたことが知られる(文明11年10月20日条)。鎌倉末期以降に近衛家領革嶋南荘の下司職を相伝した革嶋家の家系を記した「源氏佐竹革嶋之系図」によれば,革嶋家は清和源氏佐竹氏の後裔で,佐竹昌義の五男義季にはじまり,義季は讒にあって源頼朝に所領を没収され,近衛基通の縁故を頼って山城国葛野郡川嶋荘に来り,その子義安が革嶋南荘の下司となり,子孫がこれを相承したという。いっぽう北荘には平姓川嶋氏が住み,字辻に住居があったので辻川嶋と称し,これも戦国期までその存在を確かめることができる。さきの建長5年近衛家所領目録についで,革嶋荘に関する確実な史料は正嘉2年9月日前太政大臣近衛兼経家政所下文(革嶋家文書,以下特記しない限り史料は革嶋家文書)である。これによれば革嶋荘は近衛兼経家の所領であり,当荘内の田地1町を法華山寺(峰ノ堂)光明真言供養法料に寄進している。正和元年11月13日には革嶋憲安(童名亀鶴丸)が近衛家より革嶋南荘下司職に補任され,憲安は嘉暦元年6月6日これを嫡子幸政に譲った。これよりさき嘉暦元年2月に作成された革嶋南荘指図によれば,南荘の田地はムシナカ里・シマタカ里・ウエツキカ里・荒木里と乙訓郡のムナヒロカ里に散在している。そしてムシナカ里31坪には「御所カキ内」と記した所があり,それが革嶋氏の居宅と考えられ,ここには現在も革嶋家(現当主革嶋恒徳氏)の住居が存在する。建武3年7月2日の足利尊氏軍勢催促状を受けてその麾下に馳せ参じた革嶋幸政は,同8月11日恩賞として南荘領家職半分を地頭職として賜り御家人にとりたてられた。かくして幸政は同13日には峰ノ堂に馳せ参り,同年9月13日には天王寺追討の催促を受け,その後も八幡宮放生会警固役・八幡参詣や熊野参詣の御供を勤めている。なお暦応年間には久世・河嶋・寺戸の3郷が今井用水のことについて契約を結んでいるが,河嶋郷を代表してこれに署名をした河嶋安定は辻河嶋氏である。延文元年11月15日幸政は革嶋南荘下司職その他を子息景安に譲った。川島の地は山陰道および西国街道に通じる交通の要地にあったため,軍事上も重要な所として知られている。元弘3年3月12日洛中の戦に敗れた赤松則村は山崎に退くが,これを追って六波羅勢は山崎に出兵する。その時の模様を「太平記」は「(六波羅勢ハ)三月十五日ノ卯刻ニ,山崎ヘトゾ向ヒケル,此勢始ハ二手ニ分ケタリケルヲ,久我縄手ハ,路細ク深田ナレバ馬ノ懸引モ自在ナルマジトテ,八条ヨリ一手ニ成,桂河ヲ渡リ,河嶋ノ南ヲ経テ,物集女・大原野ノ前ヨリゾ寄タリケル」と記している。同4月3日には赤松則村はまた洛中へ攻め入るが,「太平記」には「又一方ニハ,赤松入道円心ヲ始トシテ,宇野・柏原・佐用・真嶋・得平・衣笠・菅家ノ一党都合其勢三千五百余騎,河嶋・桂ノ里ニ火ヲ懸テ,西ノ七条ヨリゾ寄タリケル」と見える。革嶋氏は景安ののち光安―秀安―貞安―政安―親宣と相続し近衛家領革嶋南荘下司として,また幕府の御家人西岡被官人として活躍をした。永享12年には隣荘東寺領上野荘が洪水で荒廃したのを復興し,貞安は東寺から上野荘代官に補任されている。また「親元日記」寛正6年11月3日条によれば,幕府は革嶋左近将監ら8人の西岡被官人に対して土一揆に同意することのないよう命じている。15世紀末の親宣の代になると革嶋荘を中心として近隣の地に膨大な土地の買得をはじめる。永正4年2月の革嶋泰宣(親宣の子)知行目録によれば,「城州革嶋庄地頭職下司職同南北庄内買得田地」および「同所高野田御代官職」をはじめとして散在買得田は岡荘・広野陵荘・下津林荘・上野荘・桂上下荘ならびに朝原荘・下山田西荘・土川白井荘・上野荘・泉乗寺村・西七条・外畑荘・丹波国桑田郡中畑・同国田能村と広範な地に及んでいる。また泰宣は長享元年,将軍足利義尚に従って近江国鈎里に出陣し,その子就宣は享禄4年,摂津国神尾において35歳で戦死するなどの動きがみられるが,近世にはそのまま当地にとどまって,郷士として重きをなした。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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