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倉橋郷(中世)


 平安末期~戦国期に見える郷名。加佐郡のうち。倉橋荘ともいう。寿永3年4月16日,平辰清が八条院女房弁殿局に加佐郡大内郷を寄進しているが,その寄進状に大内郷の四至として「北限余部堺方并倉橋郷堺」と見える(東寺百合文書ホ/平遺4154)。その後,建長3年8月3日,「丹後国倉橋庄内与⊏⊐(保呂村)」の地頭職に前宮内大輔平朝臣(朽木光度)が補任され,以後,朽木氏が郷内与保呂村の地頭職を相伝(朽木文書/鎌遺7332)。一方,南北朝初期の某年12月7日,坊内殿宛てに足利尊氏が,「丹後国倉橋郷」を出羽国で忠功のあった小野寺尾張守に沙汰するよう命じており,以後,「倉橋郷地頭職」(おそらく与保呂村を除く残余分)は小野寺氏に相伝された。小野寺氏に相伝された倉橋郷は,永享3年5月22日,小野寺遠江守栄秀の訴えをうけて守護使不入の地とされ,同7年12月17日には諸公事・臨時課役銭が免除された。この両種の特権の付与については,永享3年8月から寛正3年7月に至る一連の遵行関係文書が残されている(久我家文書)。「丹後国田数帳」加佐郡の冒頭には「一 □□郷 百六拾七町七段内」が見えるが,そのうち27町9反余を与保呂小倉筑後守,31町6反余を地頭小野寺,残余を領家延永左京亮が知行しており,これが当郷であることがわかる。下って永正12~14年,一色氏家臣団の内紛と対武田合戦にあたって,一色義清・石川勘解由左衛門尉は武田元信・朽木稙広・朝倉孝景らの勢力と合体,一色九郎・延永春信らの勢力と相対した。永正14年6月,延永春信は若狭和田に着陣したが,武田・朽木らの連合軍に追われて「倉橋城」に退き,同年8月落城した(室町家御内書案・小浜市明通寺文書・東寺過去帳)。倉橋城は舞鶴市行永の竜勝寺裏山と考えられる。「東寺過去帳」によれば,永正13・14年の双方の死者は二千数百人を数えたという。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7375929