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栗隈郷(古代)


奈良期~平安期に見える郷名「和名抄」山城国久世【くぜ】郡十二郷の1つ刊本の訓は「久里久末」,高山寺本は「栗前」と記して訓は「久利久万」当郷の遺称地はなく,その所在地については古来諸説がみられる「山城名勝志」は「今長池町ノ北ニ長池ノ跡トテ廻リニ堤アリ,今ノ町モ古ヘノ池ノ跡ナリト云,是昔ノ栗隈大溝ナンヘシ」として,現在の城陽市長池の付近に栗隈大溝を比定,「山城名跡巡行志」もこれに同じであるそれに対して「府地誌」の富野村誌は「古ノ栗隈県ハ本村部内長池町ヨリ以北広野村辺迄ノ称ナリト云」として,長池から広野あたりまで,すなわち城陽市の南部から宇治市の南部に及ぶ広範な地域を比定するまた「宇治市史」は栗隈大溝を現在の古川とし,宇治市大久保にある旦椋神社が栗隈天神とよばれることなどから,広野・大久保地区がその地にあたるとするが,これが妥当な見解であろうはやく「日本書紀」に仁徳天皇12年10月条に「大溝を山背の栗隈県に掘りて田に潤く,是を以て,其の百姓,年毎に豊たり」と見え,また同書推古天皇15年にも「山背国に大溝を栗隈に掘る」という記述もあるこれらは古くからこの地が開発されていたことを示すものであるこの開発をおし進めたのは栗隈県主の一族であった栗隈黒女は采女として朝廷に出仕し(日本書紀,舒明天皇即位前紀),栗隈首徳万の女黒媛娘は天智天皇に召されて水主皇女を生み(同前,天智天皇7年条),栗隈首も天智天皇12年9月には連の姓を与えられているその後も栗隈一族の活躍はみられるが,栗前連広耳は長岡京造営の役夫の食糧を給して従五位下を賜ったこの地は栗前野ともいわれ平安期になると狩猟の場所として知られているすなわち「日本後紀」延暦15年9月己酉に「遊猟于栗前野」と見えるほか,ここにしばしば来遊の記事をみる保安3年11月24日および保安4年4月26日右京大夫宅牒案には「久世郡 栗隈郷都々志原里廿八坪七段 卅坪一町」と見え,栗隈郷に右京大夫(久我家か)の所領があったことを知る(久我文書)




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7375949