100辞書・辞典一括検索

JLogos

62

大和田荘(中世)


 平安期~室町期に見える荘園名。河内国茨田【まつた】郡のうち。はじめ最勝光院領,のち久我家領。平安末期から鎌倉初期にかけては,建春門院滋子の御願寺である最勝光院領で,後白河上皇から後鳥羽上皇に伝領された。初見は「吾妻鏡」に収められた寿永3年4月6日の源頼朝下文案で,「麻生大和田領〈河内〉……已上女房御領」とあり,麻生大和田領は建春門院領として,本所の沙汰に従い平頼盛がもとの如く知行すべき旨が記されている。頼朝が,平家没官領として没収せずに,平頼盛が領家として知行することを認めたものである。承久の乱後,後高倉院に寄進され,次いで娘の安嘉門院に伝領された。また領家職は平頼盛の五男光盛が相伝していたが,承久の乱に際し河内国小和田荘地頭の高木左近将監に押領され,承久3年11月17日関東下知状(久我家文書/鎌遺2887)で,幕府は地頭に不法行為を停止するよう下知している。寛喜元年6月日の平光盛所領処分状案(同前/岐阜県史史料編4)によると,光盛は家領を7人の女子に分割処分し,安嘉門院の宣旨局であった嫡女に当荘を,また安嘉門院の内侍局であった七女に大和田荘内の田地7町を譲与している。したがって,当時大和田荘の本家は安嘉門院であり,その女院に仕える円性の嫡女・七女が領家であった。その後宣旨局から久我通忠室に譲られたことが,弘安元年4月21日付の宣旨局譲状案(同前/鎌遺13025)に見え,以後領家職は久我家へ伝領された。一方本家職は大覚寺統系に伝領され,後醍醐天皇によって正中3年東寺へ寄進されたが,建武中興に際して本所の地位を放棄した。しかし領家職は南北朝期にも久我家に伝領され,康暦2年12月22日の室町将軍家御教書案および永徳元年7月16日の足利義満御判御教書案(同前/国学院雑誌61-6)により,久我家雑掌が支配にあたっていたことが認められる。その後室町期には,寛正年中頃と思われる久我家領不知行分注文案(同前/新編一宮市史資料編6)に「一,河内国大和田庄,北野宮日供䉼仁御寄附也」とあり,当荘が北野宮日供料として寄進された旨が記されている。また「北野社家日記」の明応2年2月23日条(纂集)によれば,妙法院が直務として社家上使を入部させ,所務の遂行をはかった河内八ケ所の村の1つとして当地が見えており,文書のあり方からみて室町期には本所が妙法寺(または同院内の新日吉社),領家は北野社寺であったと推測される。なお応永26年に書写されたという河内国小松寺縁起に収められた久安元年2月日の近衛天皇綸旨に「大和田」と見え,小松寺修二月会の経費の一部を負担した旨が記されているが,この文書は久安年間のものとは思われず検討を要する(続群27下)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7381936