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賀島荘(中世)


 平安期~戦国期に見える荘園名。摂津国西成【にしなり】郡のうち。加島・蟹島などとも見える。源俊頼の自撰家集である「散木奇歌集」に「かしまをすぎけるに,あそびどものあまたまうできて」とあり(平安鎌倉私家集/古典大系),11世紀ごろの和歌集には当地名が詠まれている。平安期における当地のにぎわいについては,「遊女記」に「到摂津国 有神崎蟹島等地。比門連戸。人家無絶。倡女成群。掉扁舟。着旅舶」とあり(朝野群載),誇張はあるにしても,当地は対岸の神崎とともに,当時の歓楽街であったといえる。「台記」の久安4年3月20日条(大成)には,「於西海,乗舟入自一洲遊(女脱カ)群来,宿賀島辺」と見え,高野詣の帰途,藤原頼長が当地に宿泊したことが記されている。荘園名としては,「御室御所高野山御参籠日記」の久安4年4月3日条(高野山文書4/大日古)に,「今夜於船宿 賀島庄勤儲事」とあるのが初見。当荘が御室御所の止宿に際して儲事を勤めたのは,当荘が仁和寺領であったことによる。その後鎌倉期には,蔵人所御書櫃供御人の檜物交易に津料を課すなど,通行を妨げる諸関市の非法停止を求めた貞応2年3月日付の蔵人所牒案(弁官補任紙背文書/鎌遺3078)に,「停止摂津国賀島庄内美六市」と見え,当荘内には市があったことが知られる。「美六」は弥勒のことで当地に堂舎があったと思われる。当荘については,仁治3年6月23日付の仁和寺諸堂記(愛媛県編年史2)の青蓮寺の項に,「摂津国賀島庄此寺領地,而大相国禅門〈公経〉申賜為私領 其替伊予国如之被進之」とあり,久安4年の御室御所の賀島宿泊に当荘が儲事を勤めたように,当荘はもともと仁和寺の青蓮寺領であったが,この史料により西園寺公経が私領に賜わり同家領となったことがわかる。しかし,文明10年8月日付の仁和寺知行文書目録(仁和寺文書/高槻市史3)に「御不知行御領目六……一結賀島庄」とあることより,一旦青蓮寺に返付されてから,不知行になったのではないかと思われる。その後,文明16年8月25日付の室町幕府御教書(香具波志神社文書/大日料8-16)に,「御料所摂州中島内賀嶋庄内段銭……任先例致催促」と見え,当荘は御料所となっていたことがわかる。そして延徳2年閏8月11日付の室町幕府奉行衆下知状(石清水文書6/大日古)により,守護に押領された同寺領阿波国萱島荘の替地として,当荘は石清水社家善法寺の知行に宛てられた。おそらく石清水八幡宮がその近辺に可賀島荘を所有していた便宜も考慮してのことと考えられるが,当荘と可賀島荘の関係については,詳細は不明。翌3年8月日付の善法寺雑掌の申状(同前)によれば,当荘を細川彦九郎方へ返付される奉書がなされたため,善法寺側がこれをひるがえして神領としての安堵を請うたことが知られる。その結果明応6年11月3日付の足利義澄御教書(同前)によって改めて長享元年に替地を認めたから違乱のないように安堵されている。しかし,永正2年4月13日付の幕府奉行衆下知状(同前)には「賀嶋庄新在家村地下人五郎右衛門男事,対尼崎東禅乍令沽却内,加地子分年貢難渋之間,為催促遣使者之処,為生涯彼等,自放火私宅,種々造意現形之条」とあり,未進が問題となっている。また翌3年4月17日付の同下知状(同前)では三好之長の下知と称して天竺越後守被官人の泥堂彦左衛門尉が入部して押妨する事件などが起こっており,間もなく形式上の知行安堵が行われたが,石清水八幡領の支配は困難を極めたものと思われる。荘園支配を退転する在地勢力の台頭はすでに鎌倉期からあった。住吉社と東大寺が神崎・兵庫・渡辺の関務について争い,住吉社司津守氏とともに兵庫関を襲った正和4年11月23日の兵庫関合戦悪行輩交名注文状案(摂津国古文書/尼崎市史4)には,「市熊次郎〈加嶋住〉」と悪党の一味がいたことが知られる。また,「太平記」によれば,延元元年6月南朝方の四条隆資が足利尊氏の北朝方と戦うため,八幡に兵を集めたが,その時,摂津からは賀嶋・神崎・天王寺らの者が馳集まったという(古典大系)。なお当荘は現在の淀川区および西淀川区の一部を含む一帯であったと推定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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