川俣郷(古代)

奈良期~平安期に見える郷名。「和名抄」河内国若江郡七郷の1つ。高山寺本では,「川俣」,東急本では「川保」と記す。川派とも書く。「日本書紀」応神天皇13年条に見える大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)の歌に「堰築く 川俣江の 菱茎の」とあり,当地が大きな沼沢に臨んでいたか,古大和川の広流に臨んでいたために,江の字をつけて呼ばれたという(布施市史1)。「日本霊異記」中巻第30の「行基大徳,子を携ふる女人の過去の怨を視て,淵に投げ令め,異しき表を示す縁」という話に,「河内の国若江の郡川派の里」に住んでいた1人の女人が子供を携えて,行基の法会を聞きに行ったとある。同様の話が「今昔物語集」にも見えるが「河内国若江郡川派ノ郷」と記されている。当地には古くから川俣氏が居住していと推定され,「古事記」綏靖天皇条に「此の天皇,師木県主の祖,河俣毘売を娶して」とあり,「日本書紀」同天皇2年条には「磯城県主の女川派媛」を皇后にしたとある。師木・磯城については,大和国磯城郡とする説と,河内国志紀郡とする説があるが,この媛の名の河俣・川派は,当郷にあたるという(布施市史1)。「古事記」開化天皇条にも,「息長宿禰王,河俣稲依毘売」を娶ったことが記されている。また,「続日本紀」天平19年9月2日条に,「河内国人大初位下河俣連人麻呂」が,東大寺の盧舎那仏の造営費として銭1,000貫を寄進し,外従五位下を授かったことが見え,当地に居住していた有力な豪族と推定される。「布施市史」1によれば,古代の川俣は,河川漁業の1つの中心であり,河俣連人麻呂は漁業を通じて富を蓄積したという。「新撰姓氏録」河内国皇別に,「川俣公 日下部連同祖 彦坐命之後也」,河内国神別には「川跨連,同神(津速魂命)九世孫梨富命之後也」とある。なお,「三代実録」貞観3年9月24日条に,刑部大輔豊階真人安人が卒したことが見えるが,安人はもとは河内国大県郡人で,本姓は「河俣公」であるという。当郷内には,「延喜式」神名帳に「若江郡廿二座」の1つとして見える「川俣神社」がある。古代の郷域は,現在の東大阪市の川俣・御厨【みくりや】・新家【しんけ】・荒本・長田【ながた】・西堤などの各地区一帯と推定される(地名辞書)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7382495 |