100辞書・辞典一括検索

JLogos

24

椋橋荘(中世)


平安期~戦国期に見える荘園名摂津国豊島【てしま】郡および川辺郡のうち倉橋荘とも書いた摂関家領豊中台地の西南,猪名川と神崎川の合流地域の低湿地帯に位置する弥生前期の遺跡として上津島猪名川床や庄内,弥生時代から古墳時代の集落跡島江遺跡があり,早くから開けていたことがうかがえる「新撰姓氏録」摂津国未定雑姓に「椋椅部連 伊香我色雄命之後也」とあるが,当地は,古くは椋椅部の居住地という(地名辞書)「宇治関白高野御参詣記」永承3年10月11日条(続々群5)に「以椋橋御庄卅人,摂津大江御厨夫卅人,分給水手等」とあるのが初見で,関白藤原頼通が高野山に参詣した際,当荘住人を水手としているその後平安期から鎌倉期に摂関家が春日詣でなどを行う際に屯食や裹飯を負担しているたとえば「台記別記」の仁平3年8月8日条や同年11月29日条などには,椋橋東荘から屯食4具を摂関家に納めた記事が見え,建久8年10月5日の関白藤原基通春日詣雑事定文(猪隈関白記所収文書/鎌遺936)には,椋橋東荘が裹飯300果,同西荘が500果を負担するように定めている一方,久寿3年2月11日の修理権大夫藤原某下文案(東大寺文書/平遺2832)には,当荘や長洲御厨の住人は隣接した猪名荘などの東大寺領田を請作していたことが見える応保2年11月18日の椋橋西荘司等陳状案(同前/平遺3233)によると,当荘西荘内にも4町4反の東大寺田があったが,東大寺の下司頼兼は,寺田は11町から16町存在すると称して当荘内の田地を押領したことが見えるまた以上の史料により,当荘は平安期から東・西両荘に分かれていたことがわかり,相伝も別々に行われた建長5年10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書/鎌遺7631)によると東荘は平安期には京極殿領,すなわち藤原頼通の子息師実の所領であったが,鎌倉期には近衛家実に相伝され,さらに寛元元年3月14日,近衛兼経に譲られているまた西荘は高陽院領すなわち鳥羽天皇皇后藤原泰子の所領であったが,建長頃には春日局の請所となっていた鎌倉初期には当荘領家職は後鳥羽上皇から上皇の寵姫亀菊に与えられ,さらに建保7年2月,当荘および長江荘の地頭職改補の院宣が発給されて承久の乱の一因となったとされるが(吾妻鏡・承久記),実際には上皇方の二位法印尊長などの近臣・側近が当荘を支配していたと推定される(府史)その後南北朝期に入ると当荘に対する近衛家の支配は衰退し,領有関係は複雑になるすなわち足利尊氏は建武3年1月23日,当荘を東大寺に(尊勝院文書/大日料6-3),また貞和3年9月には当荘内長島を勝尾寺に(勝尾寺文書/箕面市史史料編2)各々寄進している延文2年閏7月19日の室町幕府御教書案(後鑑1)によると,先の寄進によって当荘は東大寺八幡宮領となっていたが,利倉左衛門六郎以下が荘内に打ち入り,田畠を押領したので,幕府はこれを止めるように守護赤松光範に命じているしかし,その後も検断と称して守護方からの違乱もあったらしく,幕府は貞治6年4月22日,東大寺尊勝院に御教書を発し,当荘を守護使不入の地としている(同前)その後さらに寛正3年4月7日の足利義政御判御教書(東大寺文書/豊中市史史料編1)によって,幕府は当荘を東大寺八幡宮領として段銭・臨時課役・守護役などを免除し,守護使不入の地としているが,室町後期のものと推定される摂津国寺社本所領并奉公方知行目録(蜷川家文書/同前)には「一,南都尊勝院領 椋橋荘〈不知行〉」とあり,応仁の乱頃を境に東大寺の当荘支配も衰退したと思われるまた「廿一口評定引付」応永28年8月29日条(東寺文書3/大日古)によると当荘領家職は室町初期まで鷹司家が有していたが,応永28年,鷹司冬家が東寺の道杲法印にこれを譲与して東寺領となったその後,このうちから毎年1,500疋分が東寺八幡宮に寄進されたまた,観応元年8月,興福寺が当荘や榎並荘の還付を北朝に要求しているが,その中で「□(春)日社領摂津国榎並,椋橋,仲牧事」とあって,春日社も当荘になんらかの所職を得ていたかと思われる(御挙状執筆引付/大日料6-13)その他,貞和3年11月27日の藤原宗範契状(梅宮文書/大日料6-11)によると近衛家領山城国梅津荘の領家でもあった藤原宗範が当荘内の新御位田を領有しているまた文安3年8月22日の僧周祥寄進状案(藻井泰忠氏所蔵文書/吹田市史4)には当荘内末久名8分の1は周祥の私領であり,この年,摂津中島崇禅寺に寄進されたことが見えるその後,応仁・文明の乱の際,当荘付近は軍事上の要所であったため,東・西両軍の合戦の場となった応仁2年7月25日には西軍大内政弘は,当荘で東軍を破っていることが見える(碧山日録/豊中市史史料編1)その後,当荘内椋橋城には東軍細川勝元の家臣薬師寺与一が入り,文明2年7月16日・8月18日などに西軍の攻撃をうけているが,薬師寺は被官の夜久主計允らとこれを防ぎ,細川勝元から感状を得ている(夜久文書/同前)さらに「細川両家記」には天文3年,管領細川晴元と不和になった三好伊賀守長慶が,浄土真宗門徒とともに椋橋城に立て籠り,晴元方であった伊丹氏と合戦してこれを破ったとあるが(群書20),「私心記」天文3年6月26日条には「源八,三好方其外諸勢椋橋ヘ陣取也」,同8月11日条には「椋橋ニテ伊丹衆ト合戦,大勢敵打取候也」などと見えている(石山日記)比定地は,椋橋東荘が豊中市長島・庄内・上津島【こうづしま】・島江・庄本付近を中心とした地域で,西荘は兵庫県尼崎市の一部を含むと推定される




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7382909