高槻村(近世)

江戸期~明治22年の村名。島上郡のうち。村内に高槻城下があり,高槻藩が置かれた。高槻藩領。高槻藩高槻組に属す。村高は,摂津高改帳では元和2年頃芥川郡のうちとして村名が見え957石余,摂津草高帳では963石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに変わらず。このうち387石余が「御城地並侍屋敷引」として年貢引となり,さらに高槻町役400石と合わせて787石余が夫代御免となっている(郡秘録/高槻市史4)。年貢率は延享年間以降7割4分内外に固定された。「五畿内志」に見える「町名十六」とは高槻城下の本町・新本町・横町・馬町・柴屋町・牢屋町・魚屋町(魚之棚町)・八幡町・川之町・新川之町・寺町・田町・紺屋町・土橋町・高西町・新町という江戸初期の16町をさすと考えられる。なお慶安2年の永井氏入部以後,代官町・伊賀町・大工町ができたという。しかし城下町住民も百姓身分として把握されていたという。村方の家数・人数は,元禄年間と推定される本光院様御代御領内総名寄(高槻町誌)では411軒・1,723,宝暦10年の巡見使差出では472軒・2,195,天明8年の同差出では468軒・1,865であった。なお城下の入口については史料に乏しいが,延享2年頃永井氏家臣団120~130人,同足軽356人といわれ,これらの家族を含めて武家人口が2,200人弱と推定され,これに村方人口を合わせて18世紀前半で4,600人前後と推定されている。また城下町別の家数は,明治初年に八幡町69軒・本町34軒・横町30軒・魚屋町26軒・馬町42軒・川之町64軒・紺屋町64軒であったことが知られている。町方支配は町奉行が行い,その町政執行は惣年寄・惣年寄心添が行い,各町には町年寄があってこれを補完した(高槻通史)。寛政10年には寒天株仲間1名,同11年および文政6年には近隣諸村の菜種買付油屋1軒・慶応2年には120石造りの酒造家1軒があった(高槻市史4)。当村北辺を西国街道が通り,村内東南部の城下から他領・他国へ通ずる道が6か所あり高槻六口と称された。嘉永3年の琉球人参府の際に人足9人を負担した(同前)。鎮守は牛頭天王社(野見神社)・八幡大神宮。神社はほかに小島神社があった。野見神社の末社祖霊神社は永井神社とも称し永井直清を祀る(全志3)。寺院は,浄土宗知恩院末理安寺・光明寺末光松寺・日蓮宗本満寺末本行寺,浄土真宗本派久宝寺・円成寺,同宗大派是三寺。明治4年大阪府に所属。同9年の人口3,146。同12年の村誌によれば,反別55町余,うち田30町4反余・畑6反余・宅地24町1反余,戸数779・人口3,146,うち旧藩士分戸数367・人口1,488,牛25,人力車26・荷車14,物産は米・麦のほか菜種・啄木であった。当時の農家150戸・商家177戸・工職45戸であったという。明治6年3月高槻小学校開設,同20年高槻尋常小学校となった。同22年高槻村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7384214 |