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難波村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。摂津国西成【にしなり】郡のうち。もとは上難波村と下難波村。片桐且元による慶長14年の検地で上難波村の高277石余,下難波村の高1,474石余(西成郡史)。なお摂津草高帳には上難波村の高207石余と見える。上難波村は南船場と称された地域内に位置したといい,江戸初期からの大坂町域の拡大により町地となっていった(同前)。「大坂濫觴一件」によれば「元和五年未年九月,北舟場・南舟場之外,津村・敷津村・阿波座村・上難波村……丁家不残出来申候」という(大阪市史5)。下難波村はもと東横堀川以西・長堀川(寛永2年開削)以南の通称島の内,および西横堀川以西・立売堀川(寛永3年開削)以南の地であったといわれる(西成郡史)。うち早くは島の内が町地に編入され,元和5年には西横堀川・長堀川辺りに傾城町が置かれた。傾城町の設置に伴い,西横堀川・立売堀川・木津川・長堀川に囲まれる276石余の地にあった下難波村民の住家は,道頓堀川以南の地へ移転したという。元禄13年残存していた上難波村の飛地を下難波村に合併,難波村と改称(同前)。難波村の高は,「天保郷帳」では1,734石余,「旧高旧領」では難波村新田12石余を分離して1,722石余。幕府領。「西成郡史」によれば地内東の町300石余の地のみ生玉社領というが,「町鑑集成」は上の町とする。村域内の大坂三郷近接地はその後も漸次町地へ編入されていったが,同時に地内の町並みも充実。「天保町鑑」には難波村のうちとして「北之丁・山之丁・東之丁・中之丁・西之丁・弓場之丁・下円之丁・上の丁」の名を掲げる。ただし「村限り之丁名となれバ,他の引キ合にハ村名計りにて通用すべし」という。名産に藍がある。阿波の藍が濃色に優れるのに対し,当村産は薄色に優れるという(摂津名所図会大成/浪速叢書8)。また野菜類も生産,18世紀後半頃からは青物市場を通さない直売買をめぐって問屋・仲買と抗争を起こしている(大阪市史1・2)。なお享保13~15年には鋳銭場が置かれ,また享保飢饉の窮民対策として幕府米蔵も設置された(同前)。黄檗宗瑞竜寺など20余の寺院がある。明治2年大阪府に所属。同5年難波村新田を編入。同6年字難波新地の一部と字新川が大阪南大組難波新地1~6番町となる。同9年の人口1万201。同22年難波村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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