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日根荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。日根郡のうち。日根野荘とも書く。すでに承久4年3月10日の六波羅御教書には「日根・鮎川等」と見え(高野山文書/鎌遺2930),当地などに対する新儀五升米の催を停止させているが,荘園としての初見は文暦元年11月13日の六波羅御教書案で,「和泉国日根庄」とあり,九条道家が立券したことが記されている(九条家文書/図書寮叢刊)。元来,当荘は東北院領長滝荘の東部から北東部にかけて存在した広大な荒野で,元久2年には高野山の鑁阿上人が,貞応元年にも高野山の寺僧らがこの開発を企てた。しかし用水路を通す長滝荘や本所の諒解が得られず,開発は中止された。その後天福2年に前関白九条道家がこの荒野の開発を企てた。この時長滝荘・禅興寺の本所は道家の子教実,また禅興寺の領家は三井寺長吏円忠(近衛基通の子)であり,以前の鑁阿・高野山寺僧の場合とは違って円忠は避文を出し,道家の申請で官宣旨が下され,九条家領日根荘が成立した。この時の四至は東が葛城峰,南は於雄の堺,西は海,北は甲斐田川(見出川)で,そのうち荘領(禅興寺領・長滝荘・元興寺領・熊取荘など),給免田(春日社関係など),国衙領の現作地などが除かれている(同前)。また立券と同時に検注が実施され,文暦元年12月2日日根荘諸村田畠在家等注文案が作成されている。これによると,中央からは官使が,和泉国衙からは国使が派遣され,当荘を構成する鶴原・井原・入山田・日根野4か村の公文・田所・下司・地頭代らが立ち会っている。この田畠在家等注文案は前欠で入山田村の一部と日根野村のことしかわからないが,この当時の入山田村の残存部分の合計は田地9町6反余(現作田8町1反余)・在家22軒で,一方日根野村の現作田は12町1反余・在家11軒であった(同前)。そして建長2年11月道家は惣処分状を作成し,当荘以下35か荘を嫡孫忠家に譲っている(同前)。なお当荘の開発領主といわれる源氏は,当荘下司職および禅興寺を相伝,当荘内の無辺光院を菩提寺としており,京都の中御門に屋敷地を持っていた(同前)。一方,南北朝期足利方として活躍する日根野氏(本姓中原氏)は,長滝荘包富名下司であったが,当荘にも勢力を伸ばし,九条家政所は文永3年4月に中原盛経を井原村預所職に,同9年7月には同人を入山田村預所職に補任している(日根文書/泉佐野市史)。なおこの補任状には盛経の父慈蓮が以前入山田村の預所職となっていたことが記されている。建治3年9月晦日春日社政所は下文を和泉国内に散在する春日社神人に下している。その内容は,「日根庄雑掌慈蓮并子息盛経等」が当荘内にあった春日社の末社および神人に対して乱暴狼藉をはたらいたので,慈蓮父子を同国内から追放せよということであった(中臣祐賢記/続大成)。一方,九条家に圧力をかけるため,春日社は神人200人の上洛をも命じている(同前)。しかし春日社は所期の目的を達することはできず,翌年7月9日当荘雑掌慈蓮を安堵するため神人を下向させている(同前)。なお建治3年12月22日慈蓮および源某が,摂関家の進退下にある山城大慈恩寺の僧律円上人を日根野村無辺光院別当職に補任しており(九条家文書/図書寮叢刊),これは日根野氏の在地支配の強さを示すものといえる。その後弘安4年5月28日の和泉日根荘番頭等申状には「嘉拝(祥)寺御領和泉国日根御庄」とあり,当荘内に山城嘉祥寺領が存在していたことがわかる(兼仲卿記紙背文書/鎌遺14329)。この文書が当荘における番頭制の初見であり,番米が賦課されていたことが見える。番頭百姓たちは,預所が番米を賦課し,春日社の免田および漁田を停止したとして預所の交替を訴えているが,預所側では,番米12石は預所が在国するときの雑事米として百姓と申し定めたもの,春日免田1町5反は領家故大炊御門左大臣(師経か)のとき柳原尼の代官長谷雄兵衛入道が当荘に乱入して私の修理米として春日社末社に寄進したものと反論,結局当荘の百姓らが春日神人の威を募り,預所に非法を働いたとして処理されている(同前)。延慶2年3月九条家は日根荘雑掌中原盛治(日根野道悟)および荘官らに対し,惣検注を実施するので政所に集まるよう命じている(日根文書/泉佐野市史)。この政所の場所ははっきりしないが,禅林寺にあった可能性が強い。翌3年2月21日日根野村荒野実検注文が提出され,以後数通の注文が作成されているが,これら注文の作成者は御使春次・末正,沙汰人法橋頼賢,西大寺僧実専らであり,検注は別々のグループによって実施されている。このうち僧実専の報告によると「日根野荒野」と「長滝庄境荒野」とが南北に均分され,各々50町2反240歩・9町ずつ,「井原荒野」が63町6反160歩,合計182町1反280歩となっている(九条家文書/図書寮叢刊)。この広大な荒野の開発を僧実専が請け負っていたが,開発は進まず,7年後その開発権は没収された(久米田寺文書)。ついで実行上人が開発に乗り出しているが,これも在地の人々の妨害によって頓挫してしまった。結局正和5年4月8日久米田寺が「和泉国日根御庄内曠野事〈除井原村〉」の開発を請け負い(同前),その2か月後の6月17日には日根野村絵図が作成されている(九条家文書/図書寮叢刊)。この絵図の最下部には「熊野大道」が描かれ,その際に池があり,その傍に「古作ヲ坂之物(者)池ニツキ畢」との注記が見られ,当荘の開発には久米田寺に属する「坂之者」も参加していたことが知られる。下って南北朝期の建武3年8月24日,九条道教は当知行地目録案を作成しているが,それには「和泉国日根庄〈一円,一村有地頭〉」と見え,これに対し足利尊氏は九条家領を安堵している(同前)。地頭とは日根村地頭日根野氏のことと思われるが,南北朝期にはこの日根野氏の活躍が目立ってくる。これより先,正慶元年12月25日鎌倉幕府は,大塔宮護良親王および楠木正成誅伐のため日根野盛治に出陣を命じている(日根文書/泉佐野市史)。盛治は,その後元弘3年5月25日には足利尊氏軍に属して京都にあり(日根野文書/同前),以後北朝方として活躍している。建武4年正月に紀伊の名手源蔵人教治が数百人の手兵を率いて「日根庄大木村」にたてこもっているが,盛治はこれを討ち,追い落としている(日根文書/同前)。その後,明徳の乱の際,山名氏清の兄紀伊守護山名義理は,和泉南部の重要拠点である当荘内の土丸城に拠って戦い翌年敗死している(明徳記/群書20)。また応永の乱の際には,日根野村内の大寺檀波羅蜜寺が焼失している。さて応永3年12月25日の九条経教遺誡には「一,兼致,相伝地泉州日根庄当時不知行」と見え,当荘は武士の押領によって不知行となっていたことがわかる(九条家文書/図書寮叢刊)。また応永7年3月21日の足利義持御教書によると,山城嘉祥寺領「和泉国日根野庄」においても武士の押領が進んでいたことがわかる(前田家所蔵文書/和泉市史1)。なお同17年9月17日にも幕府は,和泉守護細川満久に対して守護被官人の石山寺別院嘉祥寺領日根荘半済および籾井王子別当職押妨の停止を命じているが(同前),この半済とは「和泉国日根郡内入山田加造田三郎次郎知行分半分」のことで,細川頼有の月忌料として応永17年9月9日細川氏の氏寺建仁寺永源庵に寄進されている(永源師檀紀年録/和泉市史1)。九条家領の方は,応永10年和泉守護仁木義員の努力により一時知行が回復したが,その後も佐竹和泉入道と日根野国盛の姦訴・違乱は続いている。しかし同27年漸く九条家の支配が回復,当荘への代官派遣が相国寺鹿苑院に委ねられている(九条家文書/図書寮叢刊)。その後同28年12月に斎藤勘解由左衛門尉が当荘年貢20貫文,同33年5月に和泉両守護代の久枝基祐と宇高通光が各々日根野村年貢50貫文,正長元年9月には久枝基祐が当荘年貢30貫文を京進しており,実際には守護請となっていたものと思われる(同前)。応永20年4月日の九条右大将(満教)家雑掌目安案には「日根庄五ケ村〈日根村・入山田・上郷・鶴原村・井原村〉」とあり,当時日根荘は鎌倉期の4か村に上郷を加えた5か村からなっていたことがわかる(同前)。この上郷は平安期の「賀美郷」(和名抄)の後身で,立荘当時も国衙領として存在し,いつの頃からか当荘に吸収されたものと思われる。5か村のうち鶴原村は明徳4年4月8日に足利義満の弓の師である佐竹和泉入道(宣尚)に与えられ(秋田藩採集文書/大日料7-1),井原村・上郷2か村は守護の半済などによって守護領に組み込まれ,室町中期以降九条家の支配下にあったのは日根野・入山田2か村であった(旅引付,文亀元年6月18日条)。このうち日根野村も守護請として次第に九条家の直接支配が及ばなくなっており,残る入山田村には,永源庵が百姓負担について何らかの免除権を持っているものと思われ,半分(大木・菖蒲分)押領のことが永享4年・宝徳元年・明応6年などの文書に散見する(同前)。この頃九条家では家政の運営費が不足し,借銭をすることが多くなった。永享5年頃相国寺僧勲都聞からの借銭430貫文の返済に当荘の年貢が充てられ,勲都聞による当荘の支配は嘉吉元年頃まで続いている。なおこの当時の当荘からの年収は約70貫文であった(同前)。また九条政基は,応仁の乱の際京都を脱出して近江坂本に滞在しているが,その滞在費などの調達のため家司の唐橋在治から180貫文の借銭をし,その反対給付として,文明4年から在治およびその子在数2代の間当荘入山田村の領家職を与えなければならなかった。明応5年正月在数は九条亭で殺害されるが,この原因は政基の悲憤と当荘の経営上の行詰まりにあった。当時根来衆が泉南一帯に勢力を伸ばしていたが,在数は根来寺の閼伽井坊から20貫文の借銭をし,根来寺の策略にかかって当荘代官職を要求されることになってしまった。結局明応8年閼伽井坊秀尊が日根野・入山田両村の代官職に補任されている。なお熊取荘の豪農中氏は当荘にも進出,文明11年10月13日に中左近太郎が「日根野中島」での麹売買を黒鳥村の麹室座から許可されている(中家文書/京大古文書室影写本)。また,当荘は開発以来毎年田地を実検して確認し,年貢・公事を徴収する方法をとっていたが,応永24年住民の要求によって年貢の固定化が実行された。しかし文亀元年九条政基は当荘に下向し,再び実検による年貢納入方法をとった。この時作成された文亀3年9月10日の日根野村東方内検帳によると番頭制がしかれていたことがわかる(九条家文書/図書寮叢刊)。当時日根野村は東方・西方の2つの集落に分かれ,東方は3番制,西方は7番制をとっていた(旅引付)。一方入山田村は「入山田四ケ村」と称され,大木村・土丸村・菖蒲村・船淵村の4つの集落に分かれ,はじめ各々1番制をとっていたが,のちには大木・菖蒲は1番制,船淵・土丸は2番制をとっていた(同前)。文亀元年九条政基が日根野村無辺光院に到着したとき集まったのが「散在之番頭百姓」「西方東方番頭百姓」であったように,番頭は各村落の代表であり,また一方番頭職は荘園領主から補任され,番頭給を給され,各番の年貢・諸公事の徴収責任者といった下級荘官的側面も有していた。文亀元年4月九条政基は当荘に下着するが,この直接の原因となったのは守護細川氏による押領であった。政基は,直務支配の一環としてまず日根野・入山田両村の領主権に手をつけた。和泉下守護細川弥九郎に対し当荘への被官人佐竹某の押妨を止め,当荘の返還を要求したが,守護方は地頭分の返還を拒否,結局政基はこの件を幕府に訴えた。幕府は政基の主張を認めているが,守護はこれを遵行しなかった。こうした守護方の強行姿勢は,政基の背後にある根来寺勢力を意識してのことであった。一方,文亀元年4月6日守護被官人の乱妨狼藉を禁止する3か条の制札を日根村政所屋・長福寺門前などに掲げ,在地支配を進めている。当荘の在地領主日根野氏は,当時日根野東方に名田4町を持ち,守護被官として活躍していたが,同年8月28日公事納入を拒否した日根野東方に侵入,農民を拉致したが,政基側によって追い返されている。この侵入の結果,前述の名田4町は没収され,東方荘民は政基側に接近し,日根野氏は政基の直務の前に屈することになった。一方,日根野西方は守護勢力の影響が強く,番頭百姓たちは守護勢力と九条家の板ばさみとなり,二重の負担を強いられることとなった。これに対し入山田四か村では,政基の直務支配がほぼ確実に行われている。永正元年7月根来寺と和泉守護の和平が成立,同11月政基は根来寺閼伽井坊明尊を当荘代官職に補任して上洛した。明尊は永正3年12月4貫文余,同4年3月には5貫700文余をそれぞれ京進している(九条家文書/図書寮叢刊)。その後,領家方番頭北荘司が,天文元年11月に当荘段銭8貫500文のうち6貫500文,翌2年11月にも6貫500文を同じく京進しているが(同前),以後所見がなく,天正13年5月14日の九条家不知行所々目録に「和泉国,一,日根庄」と見える(同前)。なお天文12年12月21日松浦孫五郎は日根野孫七郎に「日根野・入山田御本地分」などを安堵,また永禄5年5月9日富上宗俊が日根野孫七郎に「日根野下方分」などの替として天下本知行分の半分を宛行っている(日根文書/泉佐野市史)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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