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南郡


貝塚寺内は徳川政権と結びつき,御坊(願泉寺)住職卜半氏を領主とする近世都市として存続した。天正13年に当郡内岸和田城主となった豊臣秀吉の老臣小出秀政は,慶長5年の関ケ原戦ののちも本領を安堵された。小出吉政・吉英を経て,元和5年三河以来の譜代大名松平康重が入部。寛永17年には岡部宣勝が摂津国島上郡高槻城から転封。以後,岸和田藩主は同氏が相伝して幕末に至った。寛文4年における同藩の所領は,当郡47か村2万3,849石余・日根郡44か村2万9,150石余の合計5万3,000石(寛文朱印留)。所領構成は岸和田藩領が大半を占め,残りは幕府領・諸藩領・旗本知行地に分かれていた。四郡高附(奥家文書)によると,正保年間における当郡の石高は3万3,122石余。その後の村数・石高は「元禄郷帳」では69か村・3万3,553石余,「天保郷帳」では67か村・3万7,289石余,「旧高旧領」では72か村・3万2,759石余。主穀生産のほか,綿作・菜種作・果実作も盛んに展開された。明治4年廃藩置県により,当郡は堺県・岸和田県・淀県に分かれたが,同年中の暫定的な府県の廃合に伴ってすべて堺県に属すこととなった。同5年の村数は85か村。同7年堺県は大区小区制を施行し,当郡は和泉国第2大区と第3大区とに分属して,村々は第2大区5小区,第3大区1・2小区に分かれた。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7386544