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英賀(中世)


 鎌倉期から見える地名。播磨国飾西【しきさい】郡のうち。阿賀とも見える。建久7年頃と推定される某書状断簡に「勧学院領播磨国英賀庄」と見え(高山寺古文書),英賀荘は摂籙渡荘で藤原氏の氏院勧学院領であった。嘉元3年4月と推定される摂籙渡荘目録によれば,田数は15町1反15代である(九条家文書1/図書寮叢刊)。下って,渡荘としての英賀荘は,文明11年の後法興院雑事要録にも見え,為親朝臣の知行となっている(陽明文庫所蔵文書/吹田市史4)。また,「守光公記」永正13年2月20日条には,御料所采女領として「播州阿賀荘」が見える(大日料9-6)。このほか,大報恩寺は英賀荘内に念仏田5町を有していた(大報恩寺文書応永6年12月23日付大報恩寺領荘園田畠等目録/大日料7-4)。一方,観応3年9月3日の足利義詮御判御教書には京都八坂の法観寺が「英賀散在田」を領有していたことが見え(法観寺文書/大日料6-17),「蔭涼軒日録」長享2年7月28日条には「真満院領英賀東西」と見える(大日本仏教全書)。英賀東西に関しては,このほか文明13年9月日の上月満吉知行目録写の「英賀西伊地内」(上月文書/姫路市史史料編1),永正7年11月23日の赤松義村書状の「田中庄英賀西中院分」(京都大学所蔵文書/大日料9-2),永禄9年5月の本徳寺梵鐘銘の「播州飾西郡英賀東本徳寺常住鐘」(姫路市史史料編1)などがある。摂籙渡荘英賀荘はわずか15町余にすぎず,おそらく英賀荘とは別に単に英賀と呼ばれる地域が存在し,それが東西に分かれていたものと思われる。英賀は,英賀津(法隆寺文書大永3年10月25日付猛海書状/鵤荘資料),英賀の浦(反古裏/越前若狭一向一揆関係資料集成),英賀宿(斑鳩寺文書鵤荘引付永正9年2月27日条/鵤荘資料)とも見えるように,海陸交通の要地であった。「兵庫北関入船納帳」に文安2年から同3年にかけて英賀の船が多数記されていることからも,室町・戦国期の英賀は交易に従事する人々が住む港湾都市であったと考えられる。正長2年4月日の播磨国矢野荘学衆方年貢等算用状并未進徴符集(教王護国寺文書4)に見える英賀守護代や,「石山本願寺日記」天文5年4月3日条に見える「赤松奉行英賀の代官」の存在は,赤松氏がこの地を政治的・軍事的に重視していたことを示す。文明末年の赤松・山名両氏の抗争における英賀での合戦(蔭涼軒日録文明18年1月11日条・同19年3月17日条/大日本仏教全書),天文8年播磨に侵攻した尼子氏が英賀を攻略し(高橋文書10月16日付赤松政村感状/姫路市史史料編1),英賀下代をおいたことは(石山本願寺日記天文8年12月11日条),播磨支配のうえで英賀が占める戦略的重要性を物語る。戦国期の英賀は,英賀城主三木氏の城下町でもあった。「英城日記」に従えば,三木氏は伊予の河野氏の一族で,永享2年に苗字の地讃岐国三木郡から播磨に渡り,嘉吉元年に英賀城に入ったという。また,戦国期の英賀は,播磨一向宗の拠点としての宗教都市であった。英賀への浄土真宗の波及は文明年間に知られているが,その後,明応2年に蓮如の弟子空善が下向し,東かりや道場を建立した(播州船場本徳寺縁起)。さらに永正9年本願寺一家衆実円を迎え,同12年英賀御堂を建立するに及び,英賀における真宗の位置が確立した(播州船場本徳寺縁起・英城日記)。英賀御堂は,現在の亀山・船場両本徳寺の前身である。英賀の真宗門徒は英賀衆と呼ばれ,「長衆」や「中老衆」などによって構成されていた(石山本願寺日記)。英賀衆の中核をなすのは交易業者を中心とする町衆たちであり,英賀御堂は当時自治的性格を強めつつあった英賀の惣的結合の象徴的存在であったと考えられる。英賀衆は本願寺教団の中でも重要な位置を占め,戦国末期の下間頼廉・常楽寺証賢連署書状は「英賀相破候得は当寺御難儀に極事候」と述べている(善照寺文書/紀伊続風土記)。天正6年から同8年の羽柴秀吉による播磨攻略のなかで最後まで頑強に抵抗した英賀城も,同8年3月に石山本願寺が織田信長に屈すると,落城を迎える。4月26日付網干惣中あて羽柴秀吉判物に「英賀にけのき候もの共」と見えているから,この時までに英賀城は陥落したと考えられる(三木文書)。落城後,英賀の町人は姫路山下へ移され(天正8年6月19日付羽柴秀吉書状/紀伊続風土記),英賀御堂も移建されて,都市としての英賀は消滅した。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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