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瓦林村(近世)


 ①江戸期の村名。武庫郡のうち。はじめ幕府領,元和3年から尼崎藩領。元禄11年の覚(岡本家文書/西宮市史4)によれば,のちの上瓦林村・瓦林(御代)村・下瓦林村の地域は豊臣氏の時代に「高一所ニて御帳面一本」であったという。慶長10年摂津国絵図では,当村域と考えられる小林(瓦林)村・万堂(松門)村が確かに高1,233石余で一括されている。そして,慶長15年旗本石川氏(光重系)の知行地が決められた時,当村から4軒・高80石が御代【みよ】村として分村したという(石川氏は慶長17年尾張藩家老になる)。このため,「摂津高改帳」では,「見よう村」80石と「尾(瓦)林村」764石余が書き上げられている。寛永12年まで尼崎を領した戸田氏領知目録(西宮市史4)では「瓦林上下之内」764石余とあり,この頃までの郷帳類では,のちの上瓦林村・下瓦林村を瓦林村一村として扱っていたことがわかる。ただし,慶長16年上瓦林検地帳・寛永12年上瓦林村免状(同前)が残ることや,日野神社の寛永元年棟札に上瓦林村・下瓦林村の庄屋名が見えることなどから,すでに実質的には分村していたと考えられる。寛永12年青山氏の尼崎入封を機に,瓦林村は上瓦林村・下瓦林村とに正式に分村されたと思われ,以後の郷帳類では上瓦林・下瓦林2か村として扱われている。なおこれとは別に,御代村がこののち瓦林村と称するようになる。②江戸期~明治22年の村名。武庫郡のうち。江戸前期は御代村と称した。元禄年間から郷帳類では瓦林村と表記されるが(西宮市史4),その後も御代村とも呼ばれ,幕末までは御代村・瓦林村の両呼称が併用された(瓦木村誌)。はじめ幕府領,慶長15年からは旗本石川氏(光重系)知行。なお,石川氏は慶長17年尾張藩家老となる。元禄11年の覚(岡本家文書/西宮市史4)によれば,当村はもと瓦林荘の地内で,慶長年間までは上瓦林村・下瓦林村と「高一所」で,慶長15年石川氏知行地が決められる時,4軒・高80石が御代村として分けられたという。慶長10年摂津国絵図では,小林村・万堂村あわせて1,233石余の一部にあたる。村高は,「摂津高改帳」では「見よう村」80石,寛文9年頃の青山氏領地調(加藤家文書)でも御代村80石,「天保郷帳」「旧高旧領」ではともに瓦林村80石。当村は上瓦林村と下瓦林村に挟まれた平野部の農村である。水利は百間樋用水路が主流で,新堀川も用水とした。承応2年の岡本家文書に御代新田というのが見えるが,開かれたのはいつか不明。家数・人数は,延享2年19・91,天明6年20・101(西宮市史4)。神社は熊野神社。寺院は,もと浄土宗法安寺があったが,西宮町の石在町へ移転したという。水論が宝暦12年新堀川と百間樋用水の交錯点の1つである字六十六において,瓦林3か村と五郎右衛門新田村との間に起き,同13年さらに久右衛門新田(下新田)村も加わった。これは明和元年落着。明治以降はもっぱら瓦林村と称する。明治7年地内中央に鉄道が敷設された。同15年の農産物は米・大豆・綿・甘藷・空豆・小豆・豌豆など(瓦木村誌)。同22年瓦木村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7390043