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田結荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。城崎郡のうち。平安期の「和名抄」田結郷の一部が荘園化したものとみられるが,江戸期の「但馬考」では「三江郷」15か村のうち山本・金剛寺・舟町・宮島・森・野上の6か村を「今俗に田結の庄と云」としていること,弘安8年の但馬国大田文でも当荘を上三江荘と下三江荘の間に記載していることなどから,「和名抄」三江郷から分立したと推定する余地もある。承久3年と推定される閏10月9日付北条義時書状(増野春所蔵文書/鎌遺2868)に「田結庄濫妨事」と,承久の乱後,鎌倉幕府から荘内の濫妨停止を指示しており,荘内は幕府に没収されたものらしい。弘安8年の但馬国大田文には「田結庄 八十町六反〈領家嵯峨大臣家 地頭安芸左近蔵人重近女子〉」とある。荘田の内訳は仏神田10町6反・定田70町。地頭安芸重近は「吾妻鏡」にも現れる関東御家人。南北朝初期には南朝方の拠点となったが,建武4年6月,足利直義方の武将仁科蔵人将監らが「田結庄城」を攻略した(建武4年7月日付伊達義綱軍忠状/南禅寺文書上)。この頃から当荘を本拠として土豪田結庄氏が台頭し,但馬守護山名氏に属して活動するようになった。永正14年には田結庄孫六朝久が日光院に所領田を寄進したことが知られる(日光院文書/大日料9‐7)。永禄12年,織田信長は毛利氏を援助するため,木下藤吉郎(秀吉)・坂井右近(政尚)を但馬に派遣,銀山・子盗・垣屋などの諸城を落とした。この時,「田結庄・観音寺」の両城は持ちこたえたというが(益田家什書28/大日料10‐3),この後,田結庄氏は織田方となったらしい。天正3年,毛利方の垣屋豊続が田結庄是義の属将栗坂主水の海老手城を攻め,ついで是義と「田結庄表」で合戦,勝利を得た(吉川家文書11月24日付八木豊信書状/大日古)。同7年,毛利方の吉川元春は但馬に進入し八木豊信・大田垣輝延の同盟軍を得た上で,垣屋豊続を援助して「田結庄・山下・垣屋播磨守」らの攻略を企図したが,果たせなかった(吉川家文書天正7年7月27日付吉川元春等連署状案/同前)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7392649