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高家荘(中世)


 鎌倉期~室町期に見える荘園名。宍粟郡のうち。天福元年と推定される7月1日の尊性法親王書状に「抑安嘉門院御領播磨国高家・柏野庄,自国衙不可入使者候之由,去比乍存知驚罷過候処,行兼放入使者候」(真経寺所蔵法華経裏文書/鎌遺4535),同年9月8日の尊性法親王書状に「抑播州所領〈高家・柏野庄〉院宣,今明忩可被下候」と見える(同前/鎌遺4556)。当荘は皇室領荘園で,天福元年当時は安嘉門院領となっていたが,国衙の干渉が激しく,使者や惣検注使を入部させようとしたため,国使不入の院宣が下されている。嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録には庁分として「播磨国……高家庄〈高二位入道可相伝知行之由,被下 院宣,被寄附歓喜定院寺用二万疋,相折帳在別帋〉」と見え,当荘は皇室領荘園であったが,高階邦経が相伝すべしという院宣が下され,歓喜定院に2万疋が寄付された(竹内文平氏所蔵文書/鎌遺22661)。室町期成立の「峰相記」によれば,13~14世紀前半に播磨の治安は乱れ悪党の蜂起があり,高家荘も上岡荘などとともに荘園の所務相論が多発したと伝える(続群28上)。その後,「建内記」嘉吉元年閏9月記紙背文書に「万里小路大納言家領内所々事,播磨国高家庄事〈此庄ハ古来本所ハかりの在所にて候,更無地頭之号候……又代官職事,任応永四年鹿苑院殿御判〉」「任応永四年七月廿八日御内書之旨」と見える(古記録)。高家荘は古来から本所一円の荘園で,地頭はおらず,本所の直接支配(直務)であり,万里小路家は応永4年7月28日足利義満の御内書により直務支配が認められたようである。また,「建内記」正長元年正月22日条に「高家庄年貢正月分,并去年十月分等到来」と見え,年貢が同家に収納されている(古記録)。万里小路時房は同年10月17日高家荘の直務のことを幕府管領畠山満家に訴えており,永享3年3月3日には高家荘の2月分の年貢1,000疋が収納されている(建内記/古記録)。一方で,万里小路時房は永享2年から嘉吉元年にかけて多くの借銭をしているが,この返済に高家荘の年貢が宛てられている(同前)。永享11年6月29日には万里小路時房は高家荘に段銭を課しているが,前年の段銭は代官宇野氏によって遅延していた(同前)。嘉吉の乱以前に播磨国西八郡守護代であった宇野満貴が高家荘代官であった。嘉吉元年6月に起こった嘉吉の乱で,赤松氏の勢力は幕府の討伐を受け,宍粟郡での赤松方である長水城主広瀬氏や宇野満貴は降参した。室町幕府は万里小路家に高家荘の直務支配を認め,万里小路家は新たに代官を補任し,現地に派遣する。代官得分は,請口ならば250貫分,所務分ならば5分の1であった。嘉吉元年閏9月17日華蔵坊重慶法印が代官に任ぜられ,同年10月1日前代官宇野満貴には直務のことが報ぜられた。「建内記」嘉吉元年10月28日条によれば,華蔵坊重慶の使者則阿が高家荘に入部したが,前代官宇野満貴がこれを渡さず,満貴の弟が守護山名持豊に属して地下を支えていた(古記録)。宍粟郡司が入部の時,はじめ高家荘に入ろうとしたができず,前守護代の居所柏野荘に入り,宇野満貴の居館に居住しようとしたが,満貴は近くの道場を開いて居住させたりするほどであった。現地では嘉吉の乱で降参したはずの前代官宇野満貴が隠然たる勢いを保持しており,万里小路家が補任した代官華蔵坊重慶法印と則阿は現地支配ができなかった。このため,万里小路時房は再び宇野満貴を代官に任じたものと考えられる。高家荘の月宛料は,嘉吉2年11月2,000疋,同年12月2,000疋,同3年正月1,000疋,同年2月1,000疋であったが,宇野満貴は同年3月6日以上4か月分の年貢6,000疋のうち1,500疋を万里小路時房のもとに送進している。嘉吉3年6月29日代官宇野満貴は,高家荘の年貢半分は満貴が沙汰し,残り半分は播磨守護山名氏が押妨していると万里小路家に報じている。高家荘は嘉吉3年に半済が行われたとみられ,宇野満貴は半分地下代官となり,残り半分の代官は播磨守護代垣屋熙続となっている。この半済は,赤松政則の播磨回復,長水城が再興される応仁・文明の初年まで続いたと考えられる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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