秋山荘(古代〜中世)

平安期~戦国期に見える荘園名宇陀郡のうち現在の大宇陀町本郷の字秋山田・秋山などは当荘の遺称地と考えられる①秋山荘興福寺雑役免(進官免)荘園延久2年の雑役免帳に「秋山庄一町」とある荘田は松上・松下・赤栗などの地字に所在した現在の大宇陀町本郷に字赤栗がある②秋山荘一乗院門跡領応永12年頃と推定される6月25日付宇陀郡荘々郷々注文(三箇院家抄2)に一乗院方の重色所領として「秋山」と見える同時期の宇陀郡田地帳案(春日大社文書4)によれば「一,秋山庄四郷田六十一町九反 秋山跡」とある田積61町余のうち,3町3段は伊勢神領残田58町余の年貢米149石8斗から神戸明神社(阿紀神社)年貢74石・秋山妙仙寺年貢9石8斗を引落した残余が上納された荘内の伊勢神領は鎌倉期にまで遡るらしい(勘仲記弘安10年8月2日条)秋山荘四郷は現在の大宇陀町本郷と迫間【はさま】を指すとみられるが,「三箇院家抄」巻2所引の嘉元元年10月15日付順恵注文によれば「秋山庄本郷」の3分の1は大乗院門跡の知行するところであったという③秋山春日社神供料所「寺社雑事記」長禄元年11月29日条に「就宇多秋山方本知行在所……殊更当社神供料所候」とあり,当地からは春日社神供も上納されていた一乗院門跡以下への年貢納入は秋山氏の請負うところとなっている国民秋山氏は神戸明神社(阿紀神社)の神主として当地に勢力を扶殖したものという南北朝期には牧氏・沢氏らとともに南朝に属し,文和4年(正平10年)には摂津国神南合戦に足利義詮と戦ったと伝える(太平記巻32)次いで室町初期に宇陀郡域が伊勢国司北畠氏の勢力下に入ると,秋山氏は芳野・沢両氏と並んでその与力となり,「和州宇陀三人衆」と呼ばれ,のちには同氏の被官化した(勢州四家記/群書20)応永年間,秋山左馬頭入道の頃には当荘を中心として岩清水荘・上森荘・森中荘・桐山村・小著荘・河合荘・漆河原荘・南阿曽谷村・稲積(稲戸)荘・平野村・山口荘・曽邇荘・菅野荘・土屋原荘・福智荘などに所職を有して知行,あるいは年貢を請負うなどして支配下に収めた(三箇院家抄2)また井足上荘・西山辺荘・召使(鳥子)荘にも所職があって(宇陀郡田地帳案/春日大社文書4),ほぼ現在の大宇陀町域を押えている応永22年には北畠満雅に呼応して幕府が派遣した畠山満慶の軍と対峙(寺門事条々聞書/内閣大乗院文書),次いで正長元年にも満雅の再度の挙兵に応じて大和方面からの幕府の攻撃に備えたが,翌2年2月には長谷寺口に進出した多武峰と大乗院・一乗院両門跡の坊人(衆徒・国民)と合戦して敗北した(満済准后日記正長2年2月1日・同2日・同8日・同24日条)長禄初年に秋山遠清が死去すると,幕府は北畠氏と諮って国民越智氏の一族から越智備中守に家督を継がせ「宇多郡秋山之闕所」を知行させた(寺社雑事記長禄元年11月29日・同2年12月17日条)応仁・文明の乱では沢氏とともに北畠氏麾下にあって他の大和国人とは異る独自の動きをみせ,北勢地方を転戦したが(同前文明11年11月22日・12年3月19日条),文明14年秋,細川政長与党の筒井氏一派が大和回復のため反攻に出ると,秋山も越智方に協力して国中に出陣している(同前文明14年9月9日・同17日条)文明末年~長享初年頃秋山氏は再度跡継ぎが絶えたため,北畠氏では衆徒古市氏の女婿にあたる国堅を入れて跡を取らせたこれに対し越智家栄は興福寺を介して抗議しており(同前長享2年2月23日・3年2月8日・6月12日・同18日条),この後も国堅と越智氏の間には抗争が絶えなかった(同前明応4年10月13日・6年9月14日条)享禄5年国堅は一族・同名衆秋山辰巳実親・井足実栄を語らって,国衆沢・芳野・小川ら諸氏と宇陀郡内一揆の盟約を結んで郡内での地位を固めている(享禄5年6月29日付一揆契状/沢氏古文書8)秋山氏は沢氏とすでに文明16年に「宇多合戦」と称されるほどの抗争を繰り広げており(寺社雑事記文明16年7月22日・9月11日条など),この盟約も一時的安定に過ぎず,秋山氏が大和に入った細川晴元与党木沢長政と結んだために一揆は敗れて(年欠9月17日付北畠天祐書状・9月晦日付同書状/沢氏古文書4),天文24年には両氏の紛争に発展している(天文24年10月28日付北畠具教書状・同年閏10月2日付同書状/同前5)永禄年間大和を支配した松永久秀が宇陀郡にも軍を進めると,秋山氏は北畠氏の配下を脱して久秀に属したが(勢州四家記/群書20,多聞院日記永禄11年11月9日条),織田信長が政権を樹立,その子信雄が天正3年に北畠具教を滅ぼすと,秋山右近大夫は信雄に従い,同7年の第1次天正伊賀の乱では名張口で奮戦したという次いで同11年にも信雄の先陣となって第2次天正伊賀の乱の残党を掃蕩したが(勢州四家記/群書20),同年夏には北畠具教の弟東門院(興福寺院家,北畠具親)に与力し信雄に叛いている(多聞院日記天正11年4月24日条)同12年には豊臣秀吉に属し,沢・芳野らとともに伊勢松坂城主蒲生氏郷の組中となった(勢州四家記/群書20)秋山氏の拠った秋山城(神楽岡城)は現在の大宇陀町春日古城山にあり,宇陀郡内最大の城郭遺構を残すが,これは天正13年に秋山氏が追われて,豊臣秀長の家臣伊藤掃部が入って以降の修築によるものとみられる(日本城郭大系10)

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7397727 |