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北魚屋西町(近世〜近代)


江戸期~現在の町名江戸期は奈良町の1町寛永11年~宝永7年は半田方庄屋支配,以後は北方触口支配に属する江戸期は奈良町の北部に位置し,奈良奉行所の北,北魚屋東町の西にあたる北は中御門川が流れ(現在は暗渠),当地の西北で佐保川と合流する地名は魚店があったことに由来し,北は奈良南部の南魚屋町に対して,西は東隣の北魚屋東町に対して名付けられる(奈良坊目拙解)「奈良坊目拙解」には,「慶長年間為町家,因以時之人名新町焉」とあり,北新町とも北新町西(之)町とも称すという寛文年間~貞享年間頃の作製になる元禄16年写和州南都図(天理図書館保井文庫)には,「きたしんまち」と記す「町代日記」(大宮兼守所蔵)寛文10年12月13日の条には「魚屋西町」とある貞享4年の「奈良曝」には魚屋西町と北魚屋西町の両様が書かれ,町役は14軒で「うをやおほくありしを,中比今の南魚や町へ引し也」とあり,医者(外科)三橋仁左衛門,山伏の金剛院・蔵本院,とぎ屋2軒,魚屋1軒の名が見えるまた宝永年間町代高木又兵衛諸事控(県立図書館藤田文庫)には,外科の仁左衛門,薬種屋の大津屋吉右衛門,質屋の天王寺屋弥市郎,公事人宿の佐川屋伊兵衛・吉野屋長左衛門・大津屋小三郎・絈屋彦六の名が知られる宝永年間の筆になる「奈良街著聞記」によると,元和9年に郡山藩主松平忠明の家臣と奈良奉行中坊秀政配下の同心との口論から松平家家臣が斬られた事件に際して,当町の浪人新右衛門・忠右衛門が加勢した褒美として「魚市御免并塩商御免」になり,両商売は北魚屋町に限ることになり魚商が繁昌したが,宝永年間より40年以前に南魚屋町に市が立つようになり,しだいに衰えたとある寛永8年の役家数6軒半,元禄2年の家数41,竈数63うち大家32・借家31,享保14年の役家数11,家数40,竈数48うち大家22・借家26(奈良市史通史3)寛文3年牢屋が南半田西町初宮の北から当町に移る惣構9間四方,寛文10年~延宝9年までの12年間に牢舎人272(庁中漫録)宝永元年4月11日の大火で類焼(奈良坊目拙解)明治7年豊島藤平が奈良で始めて銭湯を開業(奈良の近代史年表)明治22年奈良町,同31年からは奈良市に所属同41年奈良女子高等師範学校(現奈良女子大)が創立され,当町全域は同校の敷地の一部となる(奈良女子大学六十年史)




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7399107